フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

1月8日(日) 晴れ

2012-01-09 00:42:51 | Weblog

  8時半、起床。ポテトサラダ、パン、柚子のジャム、紅茶の朝食。

  午後、散歩に出る。昼食は「テラス・ドルチェ」でアラビアータとコーヒー。

  今週あるいは来週から始まる冬のTVドラマをチェックする。実際に毎週見られるのは1、2本であろうが、面白そうなものがけっこうある。各曜日1本として候補作を7本あげると・・・。

    月曜9時(フジ系) 「ラッキーセブン」 主演:松本潤  探偵事務所を舞台にした群像ドラマ。7人の侍ならぬ7人の探偵。ボスは、天海祐希・・・ではなくて(そういう役がこのところ多い)、視聴率40%で時の人となった松嶋菜々子。

    火曜10時(フジ系) 「ハングリー!」 主演:向井理  向井理演じる主人公が仲間とレストランをオープン。彼らの成長物語。脚本が大森美香というのが期待できる。

    水曜10時(日テレ系) 「ダーティ・ママ!」 主演:永作博美  シングルマザーの破天荒な女刑事が主役の刑事ドラマ。映画「八日目の蝉」で好演した永作をまた見てみたい。

    木曜9時(TBS系) 「最高の人生の終わり方~エンディングプランナー」 主演:山下智久  警察御用達の葬儀社が舞台。山ピー主演のドラマにはハズレが少ないように思う。「クロサギ」以来の山崎努との共演も楽しみ。

    木曜10時(フジ系) 「最後から二番目の恋」 主演:小泉今日子、中井貴一 各曜日1本の原則から外れるが、岡田恵和脚本のこの大人のラブストーリーを見逃すことはできない。

    金曜10時(TBS系) 「恋愛ニート~忘れた恋のはじめ方」 主演:仲間由紀恵  恋愛からしばらく遠ざかっている男女6人冬物語。

    土曜(なし) 木曜2本の帳尻をここで合わせる。

    日曜9時(フジ系) 「早海さんと呼ばれる日」 主演:松下奈緒  4人兄弟の長男と結婚した嫁が主人公のホームドラマ。大家族への郷愁が感じられる。松下奈緒のファンとしては観なくちゃ。      

  「テラス・ドルチェ」を出て、夕暮れの街を歩く。

  商店街の小さな本屋「一二三堂」を覗く。昔からある本屋で、品揃えは限られているが、応援の意味で雑誌などを買うことが多い。今日は小説の棚から田口ランディ『私が愛した男について』(角川書店)を購入。向かいの「シャノアール」で表題作を読む。85頁の中篇だったが、面白くて1時間ほどで読了。

  職場の妻子のある男性との性愛に堕ちてゆくOLの物語。物語は主人公の語りで進行する。

  「男の人からの誘いは多かったのです。子供の頃から美人だと言われて育ち、自分でもそうなのだろうと思ってきました。恵まれた容姿は生まれつきのものですから、それがありがたいとか、嬉しいとか思ったことはありません。もっときれいな人はいくらでもいるし、美貌で仕事を得るほどでもない私の見た目など、しょせん男の人の気を引くくらいの価値しかなかったのです。そんな中途半端な容姿など、かえって面倒でした。見た目がいいので私の内面に興味をもつ男はいません。私が何を考えているかなんて、男の人にとってはどうでもいいのです。とはいえ、いまどき他人の内面に関心がある人なんているのかしら。私には誰もが身勝手に他人を利用して生きてるようにしか見えません。おおむね彼らが私を射止めたいのはくだらない虚栄心です。血統書つきの犬を連れて表参道を歩いたり、ジャガーやポルシェに乗って注目を浴びたいのと似たようなもの。」(9頁)

  こうした見方からわかるように彼女は醒めている。恋愛めいたものは何度か経験したが、のめりこむような恋愛は一度もなかった。そんな彼女がなぜ好みのタイプとはほど遠い男との性愛に堕ちていったのか。その心理を追うのは私にはそんなに難しいことではなかった。それは私が女性の心理をわかっているからではなく、主人公の女性の心理が男性の欲望を反映しているからではないかと思う。彼女の心理は、一見複雑そうに見えても、男性の読者がついていける構造をしている。急にヘアピンカーブを曲がるような豹変ぶりを彼女がしても、そうした豹変を期待する男性の心理がそこには介在しているように思う。田口ランディは女性作家だが、その同性を見るまなざしは、思いのほか男性的なのではないだろうか。

  これに対して、先日読んだ(ブログには書かなかったが)本谷有希子『ぬるい毒』の主人公の若い女性の心理は私には新鮮で、かつ手ごわかった。えっ、ここで左に曲がるのか、ここで徐行するのか、といった類の小さな驚きを随所で味わった。

  田口ランディは1959年の生まれで、本谷有希子は1979年の生まれだ。本谷が男性のまなざしからより自由であるといいたいわけではない。女性は(男性も)男性の(女性の)まなざしをいやおうなく内面化しているものである。それはいまも昔も同じだろう。同じではないのは、男性の女性を見るまなざしの変容(より中性的な方向への)ということではないだろうか。