8時、起床。今日も寒い。ベーコン&エッグ、トースト、紅茶の朝食。
昼から大学へ。王子駅付近で起こった火事の影響で京浜東北線が朝から止まっていたが、私が駅に着いたタイミングで運転再開。しかし、すぐに普通通りというわけにはいかず、ホームでだいぶ待たされた。
昼食は、東京駅から大手町駅への乗り換えの途中、「屏南」で。担担麺を注文。やはりここの担担麺は美味しい。担担麺の美味しさ自体から来る満足と、それをチョイスしたことが正解であったという満足と、二重の満足を味わう。
1時から大学院の社会学コースの博士論文中間報告会。2名が報告。2人目の報告が終わって、質疑応答をしているところへ事務所の人がやってきて、私を呼ぶ。緊急の問題が発生したようである。報告会を中座して対処にあたる。
その後は夕方まで教務室で仕事。6時半に大学を出る。
地下鉄の駅のホームに毛糸の手袋が片方落ちていた。冬場にはよくあることだが、切ない情景だ。「ごめんね」と落とし主に代わって言ってあげたい気持ちになる。耳を澄ますと、手袋も「私の方こそ、ごめんね」と言っているような気がする。「もっとあなたの手をあたためてあげたかった。ごめんね」と。・・・明らかに、昨日、教室で観た『ワンピース』の映像、ゴーイング・メリー号とルフィーたちとの別れのシーンの影響である。
帰りの電車の中で、『第三の新人名作選』(講談社文芸文庫)の中から、遠藤周作「アデンまで」を読む。志賀直哉の「網走まで」を連想させるタイトルだが、志賀が列車の中で乗り合わせた母子の身の上を考えるようには、主人公はフランスから日本に帰る船の四等船室で一緒になった病気の黒人女の身の上について考えてはいない。ただ、女が黒人であること、自分が黄色人種であること、そのことだけがすべてだった。白人と同じ知性を持った人間としてフランスに留学した主人公は、自分が黄色人種であることをいやというほど思い知らされて日本に帰るのである。最後の場面、死んだ黒人女を水葬にするとき、修道女は低い声でミサ典書を読み上げる。
「修道女の読むそれらの白人の祈祷、俺がヨーロッパでたえまなく聞きつづけた人間の慟哭と祈りとは、もはや俺の耳には乾いた意味のない音としか聞えなかった。今の俺は死んだ黒人女がそれら白い世界とはもう無縁であること、死の後にも裁きや悦びも苦しみもないこの大いなる砂漠と海との一点となることを知っていた。」
不思議なことだが、この場面には一種のやすららぎがある。救済がある。それは遠藤がその後の作家生活で追求しつづけたものであるように思う。
7時半、帰宅。夕食はモツ鍋。
録画しておいた『恋愛ニート』の初回を観る。途中までイマイチの展開だったが、終盤、登場人物それぞれのかかえる人生の問題が垣間見えるあたりから面白くなった。