フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

1月28日(土) 晴れ

2012-01-29 10:56:25 | Weblog

   6時に目が覚める。書斎に行き、カーテンを上げると、外はまだ暗い。6時半を過ぎたあたりで、空が白んできた。そうか、いまの季節はこんな感じで夜が明けるのか。焼売と味噌汁の朝食。

  午前中に、二三度、地震があった。 そのせいで京浜東北線のダイヤが乱れているとの情報をネットで知る。今日は大学に行く前に墓参りをするつもりでいたのだが、明日にすることにした。

  12時から研究室で卒業研究の口述試験。対象の学生は1名だけなので、1時間たっぷりやる。論文を書いている途中で、当初は想定していなかった問題に気付き、構成を変更したのはよいことだった。問題に気付いても、時間がないことを理由に、それに言及しないで論文を書いたのでは何の成長もない。論文を書き始める時点と書き終わった時点の自己の考え方の変化を成長という。

  午後、卒業生の一人が研究室にやってくる。「最近、やさぐれているんです」と彼女は言った。仕事がなげやりになっているという意味のようである。彼女は一流企業の人事課で働いている。仕事の量がめちゃくちゃ多く、毎日、退社は11時。午前1時に帰宅して、風呂に入って、寝るだけの生活である(朝は6時前に起きねばならない)。達成感を伴わない仕事で、人から感謝されることもない。職場の同僚たちは、それぞれ自分のかかえる仕事をこなすのに精一杯で、他人を思いやる余裕がなく、上司は始終どなりまくっている。月曜日は憂鬱で、火曜日も「まだ火曜日か」と憂鬱で、水曜日も「まだ水曜日か」と憂鬱で、木曜日は週末が見えてきていくらか元気になり、金曜日が一番精神状態はよく、待ち焦がれたはずの土曜日は休み明けの月曜日のことを考えて憂鬱が頭をもたげる。

  彼女は仕事を変わることを考えている。「私は甘いでしょうか」と彼女が聞くので、「そんなことはないよ」と私は答えた。「仕事だから」の一言で何でも正当化する(不満を我慢する)考え方が私は大嫌いである。仕事と一口にいっても、まともな仕事もあれば、くだらない仕事もある。働いている当の本人が、その仕事に意味を見出せないのであれば、それはくだらない仕事である。ただし、くだらない仕事にも生活の糧を得るという意味はある。だから、仕事とはそういうものだと割り切って、我慢して働きつづけるという選択はあるが、その場合には、労働時間は短いほどよい。労働時間以外の時間の中に人生の意味を見出す必要があるからだ。けれど彼女の場合、労働時間が(平日の)生活のほとんどすべてである。くだらない仕事=くだらない生活になってしまっている。だから彼女はやさぐれているのだ。

  「五郎八」で食事をし、「カフェ・ゴトー」をお茶をした。あれこれを話をしているうちに、彼女の表情が明るくなっていくのが見て取れた。それは彼女が本来もっている明るさである。いまならまだ十分に回復できる。人間がすっかり変わってしまう前に(それを「成長」と呼ぶのは自己欺瞞のレトリックでしかない)、仕事を変わったほうがよい。石の上にも三年などと躊躇する必要はない。

 

 

  有隣堂で以下の本を購入。

   ジェフ・ダイヤー『バット・ビューティフル』(新潮社)

   山田太一『読んでいない絵本』(小学館)

   平川克美『小商いのすすめ』(ミシマ社)

   五木寛之『下山の思想』(幻冬舎新書)

  ペットの犬や猫は飼い主の前でゴロリとお腹を見せて寝る。無防備な体勢をあえてとることで、「私はあなたを信頼しています」「私はあなたに従います」というメッセージを伝えているのだろう。実は、チュンもそれをするのである。お腹を見せて寝る雀。もしかしたら世界初かもしれない。死んでいるようにみえるが、ちゃんと生きている。死んだように眠るとはこのことだ。


風邪を引くといけないので、掛け布団をかけてやる