フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

1月22日(日) 雨のち晴れ

2012-01-23 00:57:45 | Weblog

  8時、起床。焼きハム、レタス、トースト、紅茶の朝食。

  10時少し前に妻と家を出る。妻の母親が肺炎で先週の木曜日に鴨居の病院に入院したので、お見舞いに行くためである。病院にはちょうど1時間で着いた。日曜日で外来患者がいないこともあり、病院内はとても静かだ。入院患者は老人が多いようで、みんな病室に引きこもっている。義母は朝の検温で37度5分あったとかで、退院にはもう少しかかりそうだ。

  鴨居の駅に戻る途中、「丸源」というラーメン家で昼食をとる。看板メニューの肉そばを注文。餃子(3ヶ)とご飯(中)もつけてもらう。広い店内はほぼ満席で、これは期待できると思った。実際、なかなか美味しかった。スープは醤油ベースで、豚肉の脂は浮いているものの、豚骨スープのようなこってり感はない。豚肉の脂も、柚子胡椒おろしがサッパリしているので、うまく中和されている。またお見舞いに来ることがあれば、またこの店で食事をしようと思う。「どろだれラー油」をお土産に買って帰る。

 
中央のオレンジ色のものは、生卵ではなく、柚子胡椒おろし

  蒲田に着いて、その足で床屋(理髪一番)に行く。うとうとしているうちに散髪終了。

  蒲田宝塚で『ALWAYS三丁目の夕日'64』を観る。この老朽化の進んだ場末の映画館にしてはかなりの観客である。シリーズ三作目(たぶんこれで終りだと思うが)の今回の目玉となる出来事は、六子(掘北真希)の恋愛と結婚、淳之介(須賀健太)の自立である。これに加えて、竜之介の父親(米倉斉加年)の死、ヒロミの出産も大きな出来事である。そうした出来事を通して描かれるのは「本当の幸せとは何か」ということである。 すなわち幸福の物語。60年代の幸福の物語は家族を舞台にして展開するが、注意すべきは、鈴木家も茶川家も血のつながりのない成員を含んでいるということだ。六子は鈴木オートの社長夫婦(堤真一と薬師丸ひろ子)の娘ではなく、6年前に集団就職で東京に出てきた使用人である。淳之介は竜之介とヒロミの実子ではなく、ある会社の社長(小日向文世)が愛人(奥貫薫)に産ませた子供で、その女性が他の男と結婚するにあたって邪魔になって知り合いだったヒロミに預けて出て行ったのである。つまり鈴木家も茶川家も内部に血のつながりのない他者を含む、一種の擬似家族なのである。しかし、この擬似家族は本当の家族よりも家族らしい。いや、擬似家族であるにもかかわらずではなく、擬似家族であるがゆえに、本当の家族以上に家族らしいのである。本当の家族は家族であるという事実の上に胡坐をかいて、家族であることに努力しない。しかし、擬似家族は、自分たちが擬似家族であることを知っているから、本当の家族たらんとして努力するのである。家族であることに意識的なのである。血のつながりのある家族は、竜之介とその父親の関係がそうであるように、一筋縄では行かないやっかいなものである。屈折したものである。擬似家族にはそうした屈折がない。大澤真幸の「他者性のない他者」という表現を借用するならば、擬似家族は「家族性のない家族」になりがちなのである。「家族性のない家族」においては、親は子供の幸せのみを考え、子は親の恩に報いることのみを考える。本当の家族はそうではない。親は子の幸せのみを考えているようでいて、実際は、子が親の期待の範囲内で幸せになってくれることを期待している、だから子は親の期待を拘束として感じ、親の期待をいかに裏切るか、そこからいかに自由になるかを考える。思えば、60年代とは教育家族(子供に教育的投資をして、子供の成功の物語による代理的な自己実現をめざす親たち)が台頭した時代であった。『ALWAYS三丁目の夕日』シリーズの成功は、高度成長期の現実の家族ではなく理想の家族を描いたことに起因すると考えるが、そのためには擬似家族を舞台にする必要があったのである。


次に来るのはこの映画を観るときだろう(テアトル蒲田)。