フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

1月15日(日) 薄曇

2012-01-15 22:55:26 | Weblog

  8時半、起床。

  将棋の米長邦雄元名人(現将棋連盟会長)がコンピュータ将棋ソフト(ボンクラーズ)と対局し(持ち時間3時間)、敗れたというニュースを知る。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120114-00000188-sph-soci

  棋譜は載っていないので、どんな将棋であったか具体的にはわからないが、後手の米長の最初の手「6二玉」は対コンピューター用の独特の一手で、「手将棋」と言われる実践例のない(コンピューターは厖大で詳細なプロの実践データを記憶していると考えられる)局面に誘導することで、記憶容量の戦いではなく、その場その場の読みの力の勝負に持ち込もうとしたのだと考えられる。序盤はそれが功を奏して米長有利に展開。しかし、コンピューターの正確な受けをなかなか突破することができず、逆に、見落としから攻め込まれ、一気に劣勢になり、敗れたらしい。「万里の長城を築いたが、穴が開いて攻め込まれてしまった。私が弱かった」という米長の言葉に無念さがにじんでいる。

 人間同士の将棋では、相手を完全に封じ込めて完璧に勝つということは難しい。「完璧」を目指すという志向がたぶん間違っているのだ。「完璧」を目指すと、よほど実力の違いがない限り、たいてい途中でボロが出る。自分も攻めるけれど、相手にも攻めさせて、こちらの攻めの方が相手の王将を先に捕らえることを目指すのが普通だ。そういう戦い方を対コンピューター相手にしなかったのは、一直線の攻め合いではコンピューターに勝てない(その読みの正確さと速さにおいて)と判断したからだろう。実際、コンピューターが一番力を発揮するのは、終盤、「詰め将棋」のように局面が限定されてきたときである。だから終盤である程度人間が優勢な局面でないと、勝ち切ることは難しい。序盤、中盤でコンピューターに差を付けておいて、終盤のコンピューターの追い上げをしのいで勝つという考え方はこうして生まれる。米長の誤算は、コンピューターの受けの力を軽視したところにあると思う。コンピューターの攻めの力(とくに終盤)を恐れて、それを封じ込めて、こちらが攻めて優位を築こうとしたのだが、コンピューターの読みの正確さは、守りにおいても同じであったようだ。「大山康晴と指した感じ」という米長の感想は、そのことを物語っている。多少とも将棋をわかっている人は、攻めというのは正しく対応されると攻め続けるのが大変であることを知っているだろう。攻めている方が勢いがあって有利に見えても、正しく対応されると、息切れがしてきて(無理な攻めを強いられる)、そのうち、攻めが途切れて、反攻に転じられて、一気に負かされてしまうことがある。こういう負け方は堪える。相手の力が上であることを認めざるをえないからだ。「参りました」という感じ。将棋史上最強と言われる全盛期の大山康晴名人はそういう勝ち方を得意としていた。考えてみれば、コンピューターが終盤の局面、とくに「詰め将棋」が強いということは、攻めの力だけでなく受けの力も強いということを意味している。なぜなら、攻めるためには、相手の受けの手も読まなければならないわけで、相手の最善の受けを想定した上で最善の(最速の)攻めを考えているわけである。つまり、人間から攻められる局面でも、コンピューターは最善の受けで応じてくるわけだ。コンピューターに攻めさせずに人間が攻め切って勝つというのは、実は、コンピューターの攻めを人間が受け切って勝つというのと同じくらい、至難のことなのではないだろうか。これからコンピューターと戦うプロ棋士は、コンピューターの受けをどう突破するかも考えて立ち向かわなくてはならなくなったといえよう。それにしてもコンピューターの受けの力は「大山康晴」レベルか。すごいね。

  では、全盛期の大山康晴であればコンピューターの攻めを受け切ることができるかといえば、それは無理である。なぜなら大山の受けの手は最善手ではなかったからだ。最善手というよりも、相手のいやがる受け、相手を心理的に追い詰めるような受けの手を好んで指した。論理的には最善でなくても、心理戦における最善手というわけだ。しかし、こうした方法はコンピューターには通用しない。コンピューターには論理しかなく心理がないからだ。したがって心理戦で消耗させるという手はつかえないのである。コンピューターは意表を突かれて動揺したり、粘り強く応接されていやになってしまうということがないのである。

 そうなるともう人間はコンピューターに勝てないのかというとそういうことではない。すくなくとも現時点ではそういうことはない。コンピューターの将棋ソフトといってもいろいろあって、毎年、ソフト同士の選手権でチャンピオンを決めたりしている。つまりソフトにも強弱があるわけだが、これは単純に強弱の問題ではなく、相性の問題でもある。異なるタイプの論理構造をもったソフト同士が戦うと、AはBに勝ち、BはCに勝ち、CはAに勝つというようなことも起こる。これは人間同士の戦いの場合と同じである。どのようなソフトにもそれ固有の論理構造があるということは、その論理構造を研究して、その弱点なり盲点のようなものを見つければ、勝算は十分にあるというこである。今回の「ボンクラーズ」の場合はそれがどこにあるのかは私にはわからないが、プロ棋士たちにはわかるはずである。

  これはSF的な近未来の話になるが、人間では太刀打ちできない絶対的に最強の将棋ソフトが完成したとして、その将棋ソフト同士が対戦したらどうなるのであろう。振り駒で先手・後手が決まるとして、勝負はその瞬間に決まることになるのではなかろうか。その将棋ソフトは自分自身と戦うわけであるから、こう指したら相手(自分)がどう指すかは指す前にわかってしまう。ずっと先までわかってしまう。ということは、将棋というものが本質的に先手必勝あるいは先手必敗のゲームであるならば(どうなのかは人間にはわからなくても神のごとき絶対最強のコンピューターにはそれがわかる)、先手が一手指したところで後手が「負けました」というか(先手必勝の場合)、先手が一手も指さずに「負けました」というか(先手必敗の場合)のどちらかであることになる。また、お互いが最善を尽くすと引き分け(千日手あるいは持将棋)になるということがわかってしまえば、先手は一手も指さずに「これは千日手(あるいは持将棋)ですね」と相手に言って、後手も「そうですね」と相槌をしてそれで終わりということになるであろう。ならば将棋を指す意味はなくなる。絶対最強の将棋ソフトが完成したとき、将棋の歴史は幕を閉じることになる。でも、それではしのびないというのであれば、ルールを「ちょっと」変えてやればいい。たとえば、歩が相手の陣地内で動いたときに「金」になるという現行のルールを、「銀」になると変更するのである。「と金」ではなく「と銀」。これでこれまでの定跡はまったく役に立たなくなるから、しばらくは延命ができるはずである。

  夕方近くになって、寒中見舞いの葉書をポストに出しがてら散歩に出る。この週末、初めての外出である。「緑のコーヒー豆」で一服。日誌を付ける。

  栄松堂で『週刊文春』を立ち読み。映画評(韓国映画『哀しき獣』の評価がえらく高い)、先崎学の連載エッセイ(師匠の米長に対コンピュータ戦を頑張ってほしいとエールを送っている)、山崎努の読書日記(文章がいい)など面白く読んだ。ずいぶん読んだので、これで買わないというのは申し訳ない気持ちがして購入。他の雑誌と一緒に「シャノアール」でさらに読む。