9時、起床。バタートースト、牛乳、ピーチゼリーの朝食。
10時半に自宅を出て大学へ。定期券が明日で切れるので一か月分を購入。
少し早めに着いたので、「フェニックス」でコーヒーを飲みながら電車の中での読書の続き(切りのいいところまで)。以前、研究室でコーヒーを淹れて飲んでいたことがあったが、いまはやめてしまった。喫茶店で飲むコーヒーの方が美味しいからというよりも、喫茶店で飲む方が気分転換になるからである。自宅と大学の往復の途上における喫茶店、そして大学での教室(会議室)と研究室(教務室)の行き来の間の喫茶店、 そうしたいわば「第三の場所」としての喫茶店の効用は息抜きということであり、コーヒー代(=場所代)として数百円を支払うに値するものである。
世の中には家庭を息抜き(やすらぎ)の場所と考える風潮がある。老舗の結婚式場が新婚のカップルに行っているでアンケート調査で、「どういう家庭を作りたいですか?」という質問への回答の不動の第1位は「やすらぎのある家庭」である。家庭(あるいは家族)にメンバーにやすらぎを与えるという機能があることは確かである。しかし、これは誰もが知っていることだが、家庭(あるいは家族)はやすらぎの供給源であると同時に、ストレスの発生源でもある。生活(人生)ストレスの大半は家族ストレスである。家庭は幸福の物語の舞台であると同時に不幸の物語の舞台でもある。
さらに、家庭がやすらぎの場所であるというとき、暗黙のうちに、妻が夫にやすらぎを与えるという図式が想定されているように思う。それは家庭の運営が妻(主婦)に委ねられているということと関係している。「夫は仕事、妻は家庭」という性別役割分業を背景として、家族員のケア(やすらぎを与えることもそこには含まれる)は妻の役目ということになる。家庭がやすらぎの場所であるならば、妻にとってもそうあるべきだと思うが、そう考えていない夫、自分をもっぱらやすらぎの受容者として考えている夫が多いのではないだろうか。
家庭は楽屋ではない。職場が仕事の物語(成功と失敗の物語)の舞台であるとすれば、家庭は文字通りホームドラマ(幸福と不幸の物語)の舞台なのである。われわれの日常生活に楽屋というものがあるとすれば、それは一人になれる場所、共演者や観客のいない場所である。一人で入る喫茶店はそれに近い。店主や店員、他の客はいるものの、彼らは儀礼的無関心をもって応じてくれるので、一人になれる場所として機能するのである。
昼休みに研究室で学生の面談を一件。
3限は大学院の演習。
4限は研究指導。
「maruhru」で遅い昼食をとる。ホッドドッグとオレンジジュース。
6限は講義「日常生活の社会学」。
8時に大学を出る。
丸の内の「屏南」で夕食。ネギチャーシュー麺。
9時半、帰宅。風呂を浴びてから、『トッカン 特別国税徴収官』の初回(録画)を観る。2回目も観ようかな。
今日は蒸し暑い一日だった。納戸から扇風機を出す。