6時頃目が覚めて、寝足りないが、二度はできそうにないので、そのまま起きることにする。メールのチェックをするとあれこれのメールが届いていて、午前中はその対応。
午後、外出。下丸子の「喜楽亭」に昼食をとりにいく。先週、半年ぶりに行ったのだが、これからはコンスタントに顔を出そうと思う。馴染みの店というのは大切だ。日常生活の中にそうしたスポットが点在しているという構造は維持しておきたい。今日はヒレカツ定食を注文した。メインのヒレカツのほかに、小鉢がたくさん(厚揚げと大根の煮付け、チクワ揚げと大根おろし、沢庵と白菜の漬物、レタスのサラダ)付いてくるところがここの定食の楽しみである。私が店に入ったときには、客は私だけだったが、その後、2人客があった。珍しいことである。
「喜楽亭」での食事を終えて、多摩川線→東横線→日比谷線を乗り継いで六本木に出て、国立新美術館へ行く。いま、大エルミタージュ美術館展、「具体」-日本の前衛18年の軌跡、という2つの企画展をやっているが、私のお目当てはそのどちらでもなく、日本教育書道芸術院同人書作会という公募展である。一文の卒業生のTさんの作品が出品されているので、それを観に来たのであるが、実は、今年で開設5周年を迎えた国立新美術館に来るのはこれが初めてである。大きなガラス張りの光にあふれた入物という印象の美術館である。展示スペースはものすごく広い。
私は字がものすごく下手で、小学生の頃、将来を心配した親が近所の高名な書道教室に通わせたのだが、その格調高い雰囲気にまったくなじめず、1回か2回通っただけで、もう行きたくないと涙ながらに親に訴え、それではと、その書道教室の師範をされている方が、個人的に自宅で開いているお習字塾に通うことになった。ここには3年ほど通ったように記憶している。同級生のFさんという子も一緒で、彼女は師範級の腕前で、「格差社会」「二極化」という言葉はまだなかったが、それに相当する現実がお習字教室にはあった。私は下流社会の一員であったわけだが、学校の書初めの宿題がそれほど苦痛ではなく感じられる程度のレベルまではなんとか到達したように思う。
同人書作展は、そうした私からすれば、雲の上の人々の世界である。「初日の出」とか「希望の明日」なんて作品はない(それは私も予想していた)。
私は字は下手なのだが、不幸にして(というべきか)、字の上手い下手はわかるのである。筆の運び、字と地のバランス、字と字のバランス、そうしたリズムとバランスを味わうのが書道というものであろう。このとき作品の大きさは重要である。カタログの写真では作品の大きさがわからない。会場に足を運ぶ意味がここにある。会場ではみんな写真を撮っていた。写真、OKなんだ。それはいい。
Tさんの作品の前に来た。「愉咲」という号で、谷川俊太郎の詩「五行」を作品にしている。「優秀作」を受賞。これで準同人から同人に昇格が決まったようである。おめでとう。
Tさんはいま音楽(ロック)に夢中だ。この作品にもロック的なものが感じられる。
遠くで海が逆光に輝いている と書けるのは
私がホテルの二十五階にいるからだ
高みにいると細部はなかなか見えないものだが
神は高みにいたくせにどうやって細部に宿れたんだ
悪魔の助けを借りなかったとは言わせないぞ
黒いセーターを持ち上げている乳房のふくらみ
それを恨みに思うのはそれに焦がれているからだ
そんな心の仕組みが出来上がってしまった幼年期ははるか昔
いま記憶の中に乳房は影も形もなく
ただ羊歯類が茂っている夢の湿地がひろがっている
その人の悲しみをどこまで知ることが出来るのだろう
目をそらしても耳をふさいでもその人の悲しみから逃れられないが
それが自分の悲しみではないという事実からもまた逃れることが出来ない
心身の洞穴にひそむ決して馴らすことの出来ない野生の生きもの
悲しみは涙以外の言葉を拒んでうずくまり こっちを窺っている
1時間ほど観て、ついでに水墨画の公募展を覗いて、企画展の方はまた別の機会にということにして、六本木の駅に向かう。歩いて5分ほどだが、地下を歩くので傘は必要ない。東京ミッドタウンも5周年である。