フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

5月2日(土) 晴れ

2015-05-03 09:23:53 | Weblog

8時半、起床。

トースト、メンチカツ、トマト、キャベツ、紅茶の朝食。

10時に妻と病院へ。担当医と話をしてから、病室に母を見舞う。

今日の病院の昼食はそば。そばは母が食べ、豆腐の茸あんかけと南瓜の煮物は私が食べた。妻には一足先に帰宅してもらう。

ベッドサイドに腰かけて2時間ほど母と話をする。母は、昨年亡くなった二つ下の妹や親類縁者の名前をあげて、「みんな、いなくなってしまった」と言ってみたり、定期に入れてあるお金を普通口座に移そうと言ってみたり、箪笥の中の衣類の始末の仕方について説明したり、前後の脈絡があるようなないような感じでずっとしゃべっていた。

歩いて自宅に帰る途中、「宝来」という中華料理店に入る。前から気になっていた店だが、入るのは今日が初めてだ。60代の夫婦がやっている店で、客もけっこう入っている。これは期待できるのではないかと思った。

五目炒飯を注文。初めての中華料理店ではたいてい炒飯を注文する。炒飯が美味しい店は他のメニューも美味しいし、チャーハンが不味い店は他のメニューも不味い。これはめったに外れない法則である。炒飯は中華料理店におけるリトマス試験紙のようなメニューである。「宝来」の五目炒飯は合格であった。次は―これから何度か来ることになるだろう―レバニラ炒め定食を注文してみよう。

木洩れ日がまぶしい。

谷川俊太郎は『生きる』というあの有名な詩の中で、「木洩れ日がまぶしいということ」を「生きているということ」の同義語の一つに挙げている。

帰宅すると、すでに妻と息子が庭木の剪定を始めていた。

私は切られた枝葉の始末や、雑草の駆除をした。雑草であれ、命あるものを引き抜くことには後ろめたさが伴う。後ろめたさを振り払うようにどんどん引っこ抜いていく。どうせしばらくすればまた生えてくると、言い訳のように考えながら。

夕食は天ぷらと焼き魚(メロの粕漬け)。

NHKの土曜ドラマ『64』第三話を観る。「見ごたえがある」ということばがピッタリの作品だ。