8時半、起床。
トースト、メンチカツ、トマト、キャベツ、紅茶の朝食。
10時に妻と病院へ。担当医と話をしてから、病室に母を見舞う。
今日の病院の昼食はそば。そばは母が食べ、豆腐の茸あんかけと南瓜の煮物は私が食べた。妻には一足先に帰宅してもらう。
ベッドサイドに腰かけて2時間ほど母と話をする。母は、昨年亡くなった二つ下の妹や親類縁者の名前をあげて、「みんな、いなくなってしまった」と言ってみたり、定期に入れてあるお金を普通口座に移そうと言ってみたり、箪笥の中の衣類の始末の仕方について説明したり、前後の脈絡があるようなないような感じでずっとしゃべっていた。
歩いて自宅に帰る途中、「宝来」という中華料理店に入る。前から気になっていた店だが、入るのは今日が初めてだ。60代の夫婦がやっている店で、客もけっこう入っている。これは期待できるのではないかと思った。
五目炒飯を注文。初めての中華料理店ではたいてい炒飯を注文する。炒飯が美味しい店は他のメニューも美味しいし、チャーハンが不味い店は他のメニューも不味い。これはめったに外れない法則である。炒飯は中華料理店におけるリトマス試験紙のようなメニューである。「宝来」の五目炒飯は合格であった。次は―これから何度か来ることになるだろう―レバニラ炒め定食を注文してみよう。
木洩れ日がまぶしい。
谷川俊太郎は『生きる』というあの有名な詩の中で、「木洩れ日がまぶしいということ」を「生きているということ」の同義語の一つに挙げている。
帰宅すると、すでに妻と息子が庭木の剪定を始めていた。
私は切られた枝葉の始末や、雑草の駆除をした。雑草であれ、命あるものを引き抜くことには後ろめたさが伴う。後ろめたさを振り払うようにどんどん引っこ抜いていく。どうせしばらくすればまた生えてくると、言い訳のように考えながら。
夕食は天ぷらと焼き魚(メロの粕漬け)。
NHKの土曜ドラマ『64』第三話を観る。「見ごたえがある」ということばがピッタリの作品だ。