7時、起床。
トーストと紅茶の朝食。
10時になるのを待って床屋に行く。10時開店だとばかり思っていたら、9時前には開店していたようである。
散髪を済ませて、「テラス・ドルチェ」で一服。
花屋に寄って仏花を買って帰る。4月末に閉店した「ムッシュ・のんのん」の前を通る。5月の初旬はガレッジセールをやっていたが、それも終わって、まったくの空家になったようである。
看板は残っている。これはガレッジセールの対象ではなかったようである。路上に置かれていた看板の方は「ムッシュ・のんのん」になっていたが、こちらは「ムッシュ・ノンノン」である。どちらが本当なのだろうか。でも、いまとなっては、どちらでもいいようにも思える。
庭先の桜の木に桜ん坊が成っていた。美味しそうに見えるが、たぶん酸っぱいのだろう。
2時頃、妻と病院へ母を見舞いに行く。
途中、「宝来」で食事をしていく。
私はラーメンと半炒飯のセット。妻はタンメン。麺も美味しい。よい中華料理店を見つけたと思う。
病室に入ると、ベッドに寝ていた母が私の顔を見るなり、「今日は調子がすごく悪い」と言った。朝から嘔吐が続いていて、朝食も昼食も食べていないという。吐き気止めの座薬を入れてもらったあともしばらく吐いていたが、しだいに落ち着いてきた。
3時間ほど滞在して病院を出る。
6月の初旬に友人のKの別荘「安楽亭」を訪問する約束をしていたが、Kにメールをして、キャンセルにした。
花屋の店先に日日草が並んでいた。
帰宅する前に「phono kafe」に顔を出す。満席だったが、地元のタウン誌『あっとWOO』の最新号が置かれていたので、10部ほど持って帰る。今号には「『隣町カフェ』のすすめ」というコラムを書いた。
帰宅して少ししたら娘から電話があった。いま、おばあちゃんの見舞いに来ているのだが、お父さん、手帳を忘れたでしょと言われる。気付かなかったが、確かに鞄の中にない。駅で娘と待ち合わせて(この後娘はどこかへ出かけるようである)、手帳を受け取る。
東急プラザの「くまざわ書店」で本を数冊購入して帰って来る。
池澤夏樹個人編集の「日本文学全集」(河出書房新社)の第20巻「吉田健一」。『文学の楽しみ』と『ヨオロッパの世紀末』がメインで収められている。彼の文章は悪文のような名文のような、読者を煙に巻くところがあって、気になる文章家の一人であったが、そうか、池澤は彼を単独で「全集」に入れたのか。ずいぶんと思い切ったものである。
北村薫『太宰治の辞書』(新潮社)
ダーグ・ソルスター(村上春樹訳)『ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン』(中央公論新社)
吉田健一は『文学の楽しみ』の中でこんなことを書いている。
「本は、それがもし読むに足るものであるならば、我々をゆっくり初めから終わりまで運んで行ってくれて、たまにフレミングの冒険小説のように、フレミング自身の言葉を借りれば、早く次の所が読みたくさせるところはあっても、そうでなければ本は読めないということはないので、丁度、料理を一つ食べ終わってからもうそれがおしまいだということにはならず、次のが持って来られるのと同様に、一章がすんで山を一つ越せば、そこには既に別な眺めが開けている。そして考えてみると、自分が読んでいるものの魅力が大きければ大きい程、終わりになるまではそれが終わるのを望まないもので、終わるのはそれ故に、その一つのものが完結することであり、確かに終わったと感じる時にそれが事実、終わっていて、頭にその響きだけが残り、それが再び我々を今確かに読んだものに連れ戻すのは、この点は音楽に似ている。」(21頁)
この2冊の小説は、書店でパラパラとした限りでは、「読むに足るもの」であると思われる。
金子勝『資本主義の克服』(集英社新書)
成田龍一『加藤周一を記憶する』(講談社現代新書)
上田紀行『人生の〈逃げ場〉』(朝日新書)
加藤周一が死んで6年半が過ぎた。成田龍一の本はもっと早く出るべきだったと思うが、でも、今年は未の年だから、『羊の歌』の作者についての本が出るタイミングとしてはグッドであるという言い方もありかもしれない。
金子勝と上田紀行の本は、社会の在り方と人生の在り方を考えるために読む本である。
夕食は鶏肉と野菜のレンジ蒸し。
デザートはスイカ。