8時、起床。
トースト、サラダ(ハム、トマト、コーン、ベビーリーフ)、紅茶の朝食。
世間一般ではGWは昨日で終わったのだろうが、大学は今週一杯休みである(そうするために「昭和の日」も授業をしたのである)。
11時半に予約をしてある近所の歯科医院へ行く。今日で今回のメンテナンスは完了。
午後、鶯谷の菩提寺に墓参りに行く。本来は今度の日曜日にお施餓鬼法要があるので、そのときにすればいいのだが、週末に母が一時帰宅するので、法要は欠席することにした。
墓参りの前に「川しま」で昼食をとることにする。
鴨つくねせいろを注文。
この店の鴨つくねは本当に美味しい。母や妻や妹夫婦が一緒のときは上野広小路の「今半」に行くことが多いが、一人のときは「川しま」である。
店を出て、お寺へ。街角の看板。「大・小便禁止 立派な犯罪です」か。「立派な犯罪」という言い方に子どもの頃から違和感があった。犯罪に「立派」というのはおかしくないかと。もちろん大人となったいまは、「犯罪の成立要件を満たしている」という意味であることは理解している。それでも「立派な犯罪」は「正しい戦争」というのと似た感覚がある。
GW中に墓参りに来る人は少なかったようで、花が供えられているのは周りを見回してもうちの墓だけである。
墓参りを済ませ、帰宅する途中で、東京ステーションギャラリーへ寄って行く。「ピカソと20世紀美術」を開催中(5月17日まで)。今回の展覧会は北陸新幹線の開業に合わせて、富山県立美術館の所蔵作品で構成されている。
20世紀は〇〇主義や、××イズムがめまぐるしく台頭した時代である。ピカソは常にその芸術運動の中心にいた。そのことはピカソが作風を幾度も変えたことを意味している。その理由を彼の女性遍歴に求める人もいれば、彼の商業主義的戦略に求める人もいるが、浅薄な見方である。ピカソは「ピカソ」から自由になりたかったのだと思う。そもそも〇〇主義や××イズムは、既存の世界観、既存のものの見方・表現の仕方から自由になろうとする精神の運動である。虹が七色に見えるのも、犬の鳴き声がワンワンと聞こえるのも、人間の視覚や聴覚の器官に絶対的に規定されているものではなく、世界と人間との間に文化というフィルターが介在するためである。別のフィルター(文化)を通して見れば、聴けば、世界の風景は一変するだろう。
さまざまな〇〇主義、××イズムを通底するのは「写実から抽象へ」という方向性であり、抽象とは分解と再統合のダイナミクスである。その運動にはこれで終わりということがない。新しく獲得した世界の風景も、それになじんでしまえば、新たなリアリティとして人間を拘束するものになるからだ。だからピカソは不断に「ピカソ」から自由になろうとした。ある時期からは、それが「ピカソ」のイメージになった。当初は人々の期待を裏切ることが、ある時期からはむしろそれが人々の期待に応えることになったのだ。
思想家清水幾太郎もピカソと似たところがあったのではないかと私は思う。清水が生まれた1907年はピカソが決定的な作品「アヴィニョンの娘たち」を発表した年であった。そして清水は『現代思想』を「アビニョンの娘たち」の話から書きはじめている。転向(変節)の思想家にとって、20世紀思想の話を、ピカソの作品の解説から始めることは気の利いたアイデアに思えたに違いない。「よし、これで行こう!」と膝を叩く清水の姿が見えるようである。
蒲田駅について(4時半ごろ)、その足で病院に母を見舞う。
デイルームで母と妻が話をしていた。
妻は一足先に帰り、私は夕食の時間(6時)までいた。母は食欲がないようであった。
わが家の夕食は私のリクエストでカレーライス。
外出先のどこかで手帳(スケジュール帳)を失くしてしまった。「川しま」に電話で尋ねたが、そこにはなかった。病院に電話して看護師さんにデイルームや母のベットサイドを見てもらったが、そこにもなかった。東京ステーションギャラリーにも電話をしたが、もう電話は通じない時間だった。念のために蒲田駅の忘れ物取扱所に行って届け出をしておく(電車の中で落とした可能性もある)。手帳という外部記憶装置に予定のデータは全部入っているので、GW明けからの予定が(ルーティンの授業と会議以外)わからなくなってしまった。演習とゼミの学生たちに発表の事前相談の予定を教えてくれとメールをする。
私と個人的な約束をしている人は私にメールをください。
「やれやれ」って使っていいよね。