夜、妻と劇団獣の仕業の芝居を観に日暮里へ行く。
サルトルの戯曲『出口なし』を10団体が競演するという演劇フェスティバルで、一日に2団体が公演。今日が最終日で、名古屋を活動拠点にしている双身機関という団体との組合わせだった。
『出口なし』は、それぞれの罪で地獄に落ちた面識のない3人の男女(男1人、女2人)が同室に入れられて各人の犯した罪について語り合う(というよりも詮索し合う)という内容の劇だ。部屋には鏡がない。だから3人は自分の目で自分の顔を見ることができない。自分以外の2人の他者が「鏡」の役割をして、各人は他者との会話を通して自分について(あるいは自分の犯した罪の意味について)考えていくことになる。これは社会学的思考になれている人にはわかりやすい構図で、「鏡(=他者)に映った自己」という概念そのものである。「3人」というところも肝心のところで、もし2人であれば、それが男と女であれ、女と女であれ、男と男であれ、「あなたと私」の世界であるから、エロス的な親密な関係を形成していく可能性がある。しかし、3人の場合は、そうした親密な二者関係が形成されそうになっても第三者のまなざしがそこに介在してくるので、事態は複雑である。「あなたと私」以外の第三者の存在は、自分が「あなたと私」の一人である場合だけでなく、自分自身が第三者(邪魔者)になる場合もあるということを意味している。社会の最小単位が、個人でも、二者関係でもなく、三者関係であるとはそういう意味においてである。その結果、3人の亡者たちは、互いに牽制し合って(相互監視システム)、協調的な関係を構築することができない。まさに「まなざしの地獄」である。地獄とは悪魔でも鬼のことでもなく、他者のことなのである。
物語の最後の場面。女(エステル)がもう一人の女(イネス)を殺そうとする。
エステル ふん、じゃもう見られないようにしてやる。[卓上のペーパーナイフを取り、イネスに飛びかかって何度も突く。]
イネス [もがき、かつ笑いながら] 何をするのさ、何するのさ、おばかさん。わかってるだろう、あたしはもう死んでるのよ。
エステル 死んでる! [ナイフを落とす。間。イネスはナイフを拾ってはげしくわが身を突く。]
イネス 死んでる! 死んでる! 死んでるのさ! ナイフも毒も縄もだめ。もう済んだのよ。わかった? あたしたちはいっしょにいるのよ、いつまでも(笑う)。
エステル [急に笑い出し] いつまでも、まあおかしい! いつまでも!
ガルサン [二人を見て笑う] いつまでも!
[三人はめいめいの長椅子にぐったり腰かける。長い沈黙。三人は笑うのをやめて互いに見かわす。ガルサン立ち上がる。]
ガルサン よし、つづけるんだ。
*『筑摩世界文学大系89 サルトル』(305頁、伊吹武彦訳)
男(ガルサン)の最後のセリフは「まなざしの地獄」の中で「生きていく」決意を語っている。絶望的な物語の幕引きの言葉としてこれ以上のものはないだろう。たぶん、サルトルは、最後にこの言葉をもってくることを最初から決めていたに違いない。
公演は最初に双身機関、その後に獣の仕業という順序で行われた。
双身機関は照明をぎりぎりまで落とした舞台で、役者たちの動きも抑えて、セリフを前面に出す演出をした。とくに男役の役者の声がよかった。よく通る声である。最初から朗読劇を意図したわけではないようだが、いろいろな演劇的要素を差し引いていった結果として、朗読劇のようになっていた。サルトル哲学講義を聴いているようであった。私の体調不十分なこともあって、講義の途中で、何度か居眠りをして妻に起こされた。
獣の仕業は、双身機関とは対照的に、動きの多い舞台だった。これは今回の芝居に限らず、獣の仕業の舞台の特徴で、舞踏的な身体の動きを積極的に取り入れ、音響も、音楽だけでなく、セリフの発し方も音楽的である(複数の役者が同じセリフを合唱したり、輪唱したりする)。舞台と客席の空間も融合しようとして、客席に向かって呼びかけるように、訴えかけるようにセリフを語ったりもする。一言でいえば、「熱い芝居」なのだが、今回のようなセリフがとくに重要な芝居では、ところどころセリフが聞き取りににくいという弱点も露呈していた。
そうしたお馴染みの演出の中で、今回に限った演出としては、3人の男女を6人の役者で演じていたという点があげられる。「演出ノート」によれば、「三人の登場人物を「死後」と「生前」に分け、一人の人物を二人で演じる、鏡合わせの世界で、生は死を、死は生を、鏡の向こうを覗くように見つめている。主観と客観が入り交じり、入れ替わり、倒錯していく中で、生前と死後の境目そのものを描きたい」とある。これは独創的な視点である。よくこんなことを思いついたものだと思う。サルトルはそんなことは考えていなかった(と思う)。その意味で、彼らの「出口なし」になっていた。
ただし、この独創的な演出によって、「出口なし」でサルトルが言いたかったテーマから外れていくリスクはある。なぜなら、登場人物の中に「死後」と「生前」の二人のまなざしが存在するのであれば、同室の二人の他者のまなざしに依存せずに自己認識ができてしまう可能性が出てくるからだ。つまり自己の内部に沈潜することで(自己内対話)、出口のないはずの「まなざしの地獄」から抜け出すことができてしまうからである。他者なんていらいないと。しかし、実際は、自己内対話は「出口」に到達するよりも、どうどうめぐりを繰り返す可能性の方が大きく、やはり「まなざしの地獄」からは抜け出せないだろう。
他の6団体の公演も観てみたかった。