フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

5月6日(水) 晴れ

2015-05-07 10:35:51 | Weblog

7時半、起床。

トースト、サラダ(炒り卵、トマト、レタス)、紅茶、ヤクルトの朝食。

午後、病院に母を見舞いに行く。

見舞い前に梅屋敷商店街の入口側の「ツイン」という初めての店で食事をする。

ランチの生姜焼き(1000円)を注文する。ウーロン茶はグループ客が入ってきたときに私が気を利かして席を移動したら店の人が「ありがとうございます」と言ってサービスしてくれたもの。ドリンク別で1000円というのは少し高い値段設定だが、肉の分量は多い。ご飯が丼でなく茶碗で出されるのも、水差しが出てくるのも私にはありがたい。

病室に行くと母は寝ていた。気持ちよさそうに寝ているので、声はかけず、パン屋が買ってきたデニッシュと病院ロビーの「タリーズ」で買ったコーヒーを飲みながら、しばらくデイルームで本を読むことにした。

江藤淳『成熟と喪失―〝母〟の崩壊』。1967年に出た有名な長編評論で、日本人のアイデンティティの問題を「第三の新人」たちの作品分析を通して考察している。最初に安岡章太郎の『海辺の光景』が取り上げられている。精神を病んで海辺の病院に入院している母。その死が近いことを父親から知らされた信太郎(安岡自身と思われる)は高知まで母に会いに行く。主人公の心象風景が荒涼とした海辺の光景に重ねられて見事に描かれた傑作で、安岡の作家としたの地位を確立した作品である。

しかし、江藤がこの作品を引き合いに出したのは、賞賛するためではなく、戦後の作家たちが「成熟」できずにいる原因を母子関係の密着さにあることを指摘するためである。

「ここでは明らかに母親は息子の自己の延長として描かれている。・・・(中略)・・・そして彼の、「子供である大人」の感情はいうまでもなく中学生(旧制の)の感情である。つけ加えれば、安岡氏をはじめ吉行淳之介、阿川弘之、三浦朱門といったようないわゆる「第三の新人」の諸作家が、もっぱらこの中学生的な感受性を武器にして文壇的出発をとげたのは特筆すべきことと思われる。つまりそれは「子供」でありつづけることに決めた「大人」の世界であり、どこかに母親との結びつきをかくしている。ある意味では「第一次戦後派」から「第三の新人」への移行は、左翼大学生から不良中学生への移行だといえるかも知れない。もちろん左翼大学生である「第一次戦後派」は「父」との関係で自己を規定し、不良中学生たる「第三の新人」は「母」への密着に頼って書いたのである」(単行本、13-14頁)。

「彼は一見日本の近代小説の主人公の伝統を継いでいるかのように見える。つまり「家」を出て東京に行き、「近代」に触れて「個人」というものになろうとする田山花袋以来のあの主人公たちに。しかし皮肉なことに、そういう彼がさしあたり先頭に立ってしなければならないことは、一家三人が住む家をさがすことである。彼はすでに「家」に反抗するなどという贅沢は許されていない。「近代」がこちらから触れて行くまでもなく先方からおしかけて来て、家族の結びつきを切断してしまったことについてはすでに触れた。「個人」とは、信太郎にとっては達成すべき達成すべき理想ではなく仕方なしに引き受けさせられた過酷な現実である。そういう個人である彼ら三人には、さしあたり住むべき家がない。戦争中から住んでいた家からは追い立てを喰い彼らは不法占拠で告訴されているからである。/生活無能力者になってしまった父と、ひとりの「女」になってしまった母にかわって、住む家をさがして歩く息子。こういう主人公はおそらく『海辺の光景』以前に日本の近代小説にあらわれたことがない。」(20-21頁)

病室に行くと、母がベットの上で起き上がって、バケツの中の湯に足を浸していた。ほどなくして看護師さんが来て、体を拭いてくれた。

その後、母とデイルームで話をした。今日はこちらからテーマを設定した。結婚前の母のライフストーリーを話してもらったのである。

母は昭和2年3月28日、群馬県勢多郡粕川村字月田に生まれた。家は農家ではなく、雑貨屋を営んでいた。兄が2人、妹が1人の4人きょうだいの長女であった。月田尋常小学校は粕川尋常小学校の分校で、1学年1クラスで、クラスの人数は60人もいた。卒業後は粕川高等小学校に1年通い、それから桐生家政女学校(5年制)の2年に編入した。最初から女学校に進学しなかったのは、学費が高かったからである。家は貧しかったが、それだけに、父親は子どもたちに教育を受けさせることに熱心だった。昭和20年3月に女学校を卒業し、終戦までの数か月、女子挺身隊として古河鋳造株式会社で働いた。終戦後は地元の農協の職員になった。

農協職員となって7年目、見合いをして父と結婚した。母の妹の夫(となる人)の兄さんという人が父の軍隊時代の上官で、戦後は通産省の役人をしていたが、仕事で千代田区役所に来たとき、区役所の職員をしていた父と再会し、「元気でやっているか?」という話から母との見合い話に進んだらしい。見合いは東京から父が一人で来て桐生で行われた。母の父に対する印象は、男前で身長もあったが、頭髪が薄くなり始めていたので、結婚は気が進まなかった。そのことを父親に話すと、「そんなことは大した問題ではない」と父との結婚を勧めた。父親は娘を農家には嫁がせたくなかった。実際、母の妹の結婚相手も検察事務官をしていた。母は仲人を介して父の上司に父という人物について問い合わせの手紙を書いたが、上司は「私生活のことは存じ上げませんが、職場ではとてもまじめに働いています」と答えたそうである。東京への憧れもあり、母は父との結婚を決めた。二人が結婚式をあげたのは見合いから三か月後であった。そのとき母は25歳、父は29歳だった。

母はたくさん話をして、エネルギーレベルが上昇したようである。「今夜、友人に電話をしてみようかね」と言った。

病院からの帰り道、花屋で紫陽花を二鉢買って帰る。

コンビニに買い物に行って、帰って来る道で、なつが待っていた。お腹が減っているようである。

夕食は青椒肉絲。

デザートは病院のそばのパン屋で買ったアンパン。