7時半、起床。
パン、鶏肉団子の野菜スープ、サラダ(トマト、レタス)、和栗ペースト、紅茶の朝食。
天気が回復してきたので、昼前に家を出る。
蒲田ー(京浜東北線)→東京ー(中央線・快速)→国立。
東京から国立までは快速でもけっこうある。三鷹あたりまでは都会的な感じするが、三鷹を過ぎて、武蔵境、東小金井となると辺境の地に来たなという感じなる。名前のせいだろうか。
しかし、国立になると、再び文化レベルが上がる気がする。何しろ「くにたちカルタ」なんてものまである。
【よ】 横顔のピノキオに似た国立市
ピノキオ?
ああ、なるほねど(笑)。
こうして地図で見ると、国立駅って国立市の外れにあるんだな。
国立に来た理由は、画廊「岳」で開催中の増田常徳さんの個展を観るためである。
沖縄の佐喜眞美術館で開催された「増田常徳展ー戦後70年の旋律」(6月3日~7月20日)の東京版である。
増田さんが在廊されていたので、ご本人からいろいろとお話をうかがうことができた。
今回、私が一番惹かれた作品がこれ。「波動」。
暗い海が描かれている。たんなる夜の海ではない。汚れた海、傷ついた海、絶望的な海である。
画面の凹凸は絵具を厚塗りしただけのものではない。近づいてみると、有刺鉄線が使われている。画布がむき出しているように見える部分は画布ではなく、画布の上に麻布を貼っているのである。黒い波頭は普通の黒絵具ではなく、特殊な黒絵具を使っていて、それがコールタールのような光沢と質感を生んでいる。
この画法を使ってもっと大きな作品を構想中であるとのこと。
増田さんはあきる野市に住んで30年ほどになるが、ここを人生最後の場所にするつもりはなくて、どこか外国で死にたいそうだ。ドイツなんかがいいかなという。それままたどうしてですか?・・・・ここからの話はとても面白いのだが、ここでは割愛せざるを得ない。
画廊には1時間ほど滞在した。日曜日に弘前に行くという話をすると、「高瀬君によろしく」と増田さんは言った。私が増田さんと知り合ったのは4年前、高瀬君の結婚式のときなのである。
「増田常徳展」は9月14日(月)まで。
早稲田まで戻り、「いもや」に昼食を食べに行く。
天ぷら定食(600円)+穴子(200円)を注文。安くて、美味しい。
ランチタイムは2時半までだが、今日はご飯が早めになくなったらしく、15分くらいに早く暖簾を引っ込めた。するとその直後にやってきた学生が途方に暮れたように入口のところに立った。女将さんは、「ご飯があまりないんだけど、いい?」と言いながら、彼(よく来る学生らしい)を店に招き入れた。そして御櫃の中のご飯をしゃもじで掻きとるようにして集めたご飯は、少ないどころか、むしろ大盛りになった。
支払いのとき、女将さんに今度の日曜日に弘前に行くことを話すと、女将さんは「アキちゃんによろしくね」と言った。「アキちゃん」とは弘前にある「いもや」のご主人のことである。早稲田の「いもや」のご主人の弟弟子(20歳ほど下である)にあたる人で、東京の大学を受験するつもりで上京して、そのまま神保町の「いもや」で働くようになったのである。女将さんによると「アキちゃんは一番真面目な子だった」そうである。
研究室に寄る。
今日は外国学生入学試験(面接)が行われているようである。
記念会堂の解体工事が進んでいる。
教員ロビーに信州旅行のときに購入したリトグラフが届いていたので、研究室の壁に掛ける。
樋勝朋巳作「フラフープ」。明るく、軽やかなバランスがいい。
研究室で使っている大学貸与のノートパソコンのキーボードが破損してしまったので、本部キャンパスのポータルオフィスに修理に持って行く。
普段、戸山キャンパスにいるときはあまり意識しないが、本部キャンパスに来ると、自分は大きな大学で働いているのだなと思う。
用事を済ませて、「カフェゴト―」で一服。
アイスココアを注文。
国立への行き帰りの電車の中で読んでいた坂口恭平『現実脱出論』(講談社現代新書)は面白かった。私は拙著『日常生活の探究』(左右社)の中で、現代人のライフスタイルには「時間の補正」と「空間の拡張」が必要であることを論じたが、「空間の拡張」とは「リアルな空間」の中で生活することに偏重しないで、その他のさまざまな空間『電話空間、ネット空間、作品=物語空間、空想・妄想空間など)に生活空間を広げて行こうというものである。坂口のいう「現実脱出」は「空間の拡張」と一脈通じるものがある。
「現実逃避というのは、「現実」という地面の上で逃げ続ける行為だ。つまり、同一平面上での運動である。これでは逃避すればするほど、本人の意図とは裏腹に、現実の存在感を強化してしまうことになる。/終わりがない現実逃避は、現実という架空の地図をどんどん広げていくようなものだ。現実以外には実は存在している他の複数の世界を、知らぬ間に浸食し、現実という世界で全て覆ってしまう。/僕が考える「現実脱出」とは、現実逃避のことではない。/現実脱出とは、見たくない現実を見ずにすませることではない。僕はこの言葉に、「これまで蓋をしたり、存在を体感しているのに現実的ではないと切り捨ててきたことを直視してみる」という意味を込めている。客観的に見ることが困難な現実を観察するために、現実の中に潜んでいるもう一つ別の可能性を見つけ出す行為と言ってもいい。」(28頁)
これは一種のシュールレアリズムの思想である。わたしたちが「現実」と見なしているものは「狭義の現実」で、それは「広義の現実」の一形態に過ぎない。シュールレアリズムは「狭義の現実」から私たちを解放し、「広義の現実」に目を向けさせようとする運動であるが、坂口はそれを芸術という分野(特区)ではなく、日常生活において行おうとしているのである。
明日には雨も完全に上がるようである。
妻からケータイに野良猫のなつにやるエサを買ってきてほしいとメールが入っていた。
蒲田に着いて、ペットの食品店でそれを二箱購入。
帰宅するとなつが玄関先にいたので、エサをあげる。最近、本当によく食べる。
夕食(われわれの)は回鍋肉。
「phono kafe」がいよいよ通販を始めた。
詳しくは→こちら。