昼近くになってようやく起きる。春眠暁を覚えずというよりも、春愁で不活発になっているのである。もし午後から那須先生の最終講義がなかったら昼過ぎまで寝ていたかもしれない。
トースト、ベーコン&エッグ、サラダ、牛乳、紅茶の朝食兼昼食。
1時半に家を出て、大学へ。今日は冷える。
キャンパスの入口に那須先生の最終講義の掲示が出ている。
教員ロビーに印刷・製本されたゼミ論集が届いていた。文化構想学部のゼミの9冊目(9期生)のゼミ論集だ。
今回の表紙の色は「ぎんねず」。銀色がかったグレー。落ち着いて品のある色である。最近の3冊(左から7期生、8期生、9期生)を並べてみる。いいんじゃないだろうか。ゼミ生たちには明後日の現代人間論系の学位記授与式(11:30、36号館382教室)のときに渡す。
第二研究棟前の桜はまだ一分、二分咲きくらいだ。
桜の木の下の八重椿は満開である。
那須先生の最終講義が始まった。
卒業生で満席状態である。
私が那須先生と初めて会ったのは、私が大学院の修士課程に入った年(1978年)である。社会学の院生のコンパの席上であったと思う。そのとき那須先生は博士課程の3年生であったが、翌年から新潟大学の 専任講師になることが決まっていた。「とてもできる人」なのだとみんな言っていた。俳優の原田芳雄に似ているなと私は思いながら、少し離れた席に座っている那須先生を見ていた。
私が那須先生と再会するのは、それから10年後(1988年)、那須先生が新潟大学から早稲田大学に移ってこられたときである。私はそのとき社会学教室の助手をしていた。前の年に翌年の時間割の資料の準備をしているとき、翌年から着任される先生が「新人1」「新人2」と表記されていて(実名はぎりぎりまで公表されなかったのだ)、一体、どんな先生が来るのだろうと思っていたら、那須先生と(昨年定年退職された)和田先生だった。お二人とも40代になったばかりだった。
その次に私が那須先生と会うのは、私が放送大学から早稲田大学に移ってきたとき(1994年)であるが、正確にいうと、そのとき那須先生は在外研究でボストン大学にいらしていたから、翌年、先生が帰国されたときである。以後、那須先生とは同じ職場の同僚としてお付き合いさせていただいてきた。
那須先生のご専門の現象学的社会学は、人間の日常生活世界の成り立ちの研究である。私も講義で「日常生活の社会学」というのをやっているが、両者は似て非なるものである。どちらも「当たり前」を疑うという点は共通なのだが、 「当たり前」を疑う仕方が違うのだ。一言で言えば、私が「暗黙の規範」とか「社会化」とか「役割理論」といった社会学のカテゴリーやセオリーを使って考察するのに対して、那須先生はそうした社会学的思考の「当たり前」も疑ってかかるのである。
例えて言えば、私が海の浅いところでサーフィンやシュノーケリングを楽しんでいたときに、那須先生は深海探索船に乗り込んで、海の最深部で探求活動をされていたのでる。那須先生の講義は「難しい」ことで定評があり、学生は「わかりやすい」私の講義に集まったが、社会学の面白さをより深く味わったのは那須先生の講義に出ていた学生たちだったと思う。私にしても、一種の役割分担のような意識があり、深いところは那須先生にお任せして、自分はサーフィンやシュノーケリングを楽しませてもらっていたのだ。
しかし、那須先生が定年退職をされると、急に足元か頼りないような気分になる。
最終講義が終わり、教室で来聴者との懇談の時間の後、場所を第一会議に移してパーティーとなる。当初、染谷記念館を予定していたのだが、出席者が予想を越えてしまい、場所を変更することになったのである。
最初に那須先生の指導教授であった佐藤先生(名誉教授)から祝辞があった。佐藤先生は那須先生より15歳年長である。
続いて私が祝辞を述べ、乾杯の発声をした。
そして那須先生の挨拶。(宮崎駿ではありません)
以下、歓談の合間に、花束の贈呈や全体記念撮影や祝辞などが続いた。
出席者のほとんどが那須先生の教え子たち(新潟大学・早稲田大学・早稲田大学大学院)で、その中には私の授業を受けた卒業生も多数いて、私も歓談のおこぼれにあずかった。 20年振りくらいに会う卒業生もけっこういたが、みな学生時代の面影を残していた。中には、私のゼミの教え子の配偶者という方も2人ほどいた。
これは記念のケーキ。
小さくカットしてみんなに供された。
私は畏れ多くも先生のお名前の「那」の文字のところをいただいた。
祝辞のところでは述べなかったが(いい話なのだが長くなるので)、先生のお名前についてはわが大久保家に伝わるエピソードがある。或る夜、那須先生から我が家に電話がかかってきた。その電話を当時まだ小学校に上がる前の息子が取った。私はそばでそれを見ていたが、すぐに「お父さんに替わってください」と言われて、こっちに受話器が渡されるものと思っていた。ところが、息子は受話器を握りしめたまま固まっているのである。そして「ほんとに?」と受話器に問いかけているのである。何が一体「ほんとに?」なのか。謎はすぐに解けた。息子はこう言ったのである。「ほんとにナスって名前なの?」。おそらくそのときの息子の頭の中は「アンパンマン」的な世界が展開されていたのだと思う。なにしろナス(茄子)おじさんから電話がかかってきたのだ。そこにはキャベツおばさんや、ジャガイモじいいさんもいるに違いないのだ。息子の苦手なトマトねえさんもいるに違いない。息子は何度も「ほんとに?」「ほんとにナスって名前なの?」と問いかけた。私は笑いをこらえながら、しばしそれを放置した。たぶんナスおじさん、いや、那須先生は「そうです、ナスです」「お父さんをお願いします」と辛抱強くお答えになられていたに違いない。決して、「このおたんこなす、さっさとお父さんに替わりやがれ!」などとは言わなかったのである。那須先生、その節は失礼いたしました。そして、息子の情操教育にご協力いただきありがとうございました。
おそらく卒業生たちは、那須先生のやさしく辛抱強いお人柄に惹かれて、今日ここに集まったのに違いない。私はそう確信している。
パーティーは2時間ほどでお開きになった。
私は研究室に戻って雑用を片付けてから、大学を出た。途中で社会学コースの助手で那須先生のお弟子さんのK君と遭った。諸々の後始末をしていた。今回の最終講義・パーティーの準備にはこの半年間ほどかかったはずである。ご苦労様でした。
「カフェ・ゴトー」で一服。ココアでホッとする。
研究室の棚にあった那須先生の著書に改めて目を通す。学位論文の『現象学的社会学への道』(恒星社厚生閣)と教科書として広く読まれれている『クロニクル社会学』(有斐閣)である。
先生が職場を去られても先生の本はいつもそこある。
11時、帰宅。パーティーの引き出物の袋の中に那須先生の定年退職を機に先生の教え子たちを中心にして編まれた論文集が入っていた。
栗原亘・関水徹平・大黒屋貴稔編『知の社会学の可能性』(学文社)
那須先生が職場を去られても中堅・若手の優秀な研究者たちが先生のされてきた知的探求を続けていくだろう。
2時半、就寝。