9時15分、起床。
トースト(+目玉焼き)、サラダ、牛乳、紅茶の朝食。
昨日のブログを書いてアップする。
午後から大学へ出かける。
「出勤」という行動の頻度が少なくなって久しい。授業も会議も基本オンラインの生活にすっかり慣れてしまった(ただし、慣れたからといってそれが快適であるというわけでは必ずしもない)。久しぶりの出勤を新鮮に感じるのは、空が晴れていることと、午後からの出勤で電車が空いているせいもあるだろう。
今日はホームグラウンドの戸山キャンパスではなく、本部キャンパスに用事がある。
その前に「タビビトの木」で昼食をとることにする。
フォーのセットを注文する。鶏出汁ごはんとサラダ、ドリンクが付く。
ドリンクはカフェラテをチョイス。
本部キャンパス南門の早咲きの桜の下にサークルの立看が並び始めている。緊急事態宣言はいまだ継続中だが、学生たちが4月からリアル・キャンパスライフが送れますように。
本部キャンパス11号館。
5階の505教室で教員対象の「ハイブリッド型授業の効果的な実施について」のセミナーが開かれる。ハイブリッド型授業というのは教室での対面授業とオンライン授業を組み合わせて行う授業のことで、「今週は対面、来週はオンライン」というようなものも広義のハイブリッド型に入るのだが、われわれが関心があるのは、対面授業とオンライン授業を同時に行う、つまり教室にやってくる学生もいれば、オンラインで参加する学生もいるというタイプの授業である。それを行うためにはいくつかの機器とそれを使いこなす技術(とくに教員がワンオペで行う場合)が必要である。
オンラインでも参加できたのだが、「教室」でハイブリッド型授業を体験したかったのと、夜、大学の近くで用事があるので、やってきたのであるが、係の方に案内された場所が教室の風景を映すために教室の前方に設置されたカメラ前の席だった。そのためオンラインで参加されている方々には教室の一番前の席に座ってセミナーを「熱心に」に受講している私の姿が見えたことであろう。
セミナーを終え、次の用事までまだしばらく時間があるので、カフェで一服することにした。
南門通り商店街を歩く。「平山時計店」。何度か電池の交換をしてもらった。
オザワ洋服店(ずっと昔に閉店しているが看板はそのまま)。
「キッチン南海」。ここのチキンカツカレーのファンである。
古書店「ルネッサンス」。早稲田の古書店としては比較的新しいが、それでも開店してからそれなりの歳月を経過して、南門通りにしっかりと定着している。
早稲田通りに出る。「ドトールコーヒー」。共栄電資のビルの一部だが、壁の色のせいで独立の建物のように見える。
「あゆみブックス」は「文禄堂」という名前を前面に出すようになり、ビルの2階のカフェは「シャノアール」から「ルノアール」に替わった。
「カフェゴトー」に入る。
写真には写りこんでいないが、数組の客が入っていた。
杏のフランとアイスアップルティーを注文。
チェスを指すボブ・ディラン(ですよね?)の写真が飾ってある。店主の後藤さんは知る人ぞ知るチェスの強豪である。
この後の用事というのは江戸川橋の「絵空箱」というスタジオで上演される芝居を観ることである。早稲田からは歩いて行ける距離である。7時開演なので、その前に食事をしている時間はないし、そもそもそれほどお腹は減っていない。しかし、芝居が終わってから(8時半ごろになる)では食事のできる店は閉まっているだろう。
早稲田駅そばのコンビニでおにぎりを一個買う。先日食べて美味しかったたこめしである。これを江戸川橋まで歩く途中で食べた。やっぱり美味しかった。醤油の染み加減がいい。
劇場のだいたいの場所はわかったいたが、最後のところで少し迷い、着いたのは開演10分前くらいだった。
劇団「ソルティ・ロック」の公演で、演目は二つあるのだが、今夜の回(初日である)は「水棲のアリア」。犬井ねここの脚本を劇団「獣の仕業」の立夏が演出する。
下の写真は終演後、役者たちがいなくなってから撮ったものである。スタジオの一画がビニールカーテンで仕切られ舞台になっている。ビニールカーテンは役者たちの飛沫が観客に及ばないようにするためのものだが、物語が水槽(アクアリウム)の中で展開するような設定になっているので(これはたまたまのことでコロナ的状況に合わせて書き下ろされた脚本ではない)舞台装置としても効果的だった。
開演前から舞台には6人の役者(女が5人、男が1人)がそれぞれの仕方でたたずむようにスタンバイしていた(立夏の演出の特徴の1つである)。物語の時間はすでにこのときから動き始めている。役者たちの息遣いと観客たちの息遣いがしだいにシンクロしていく。
シナリオには6人の役者の役名は具体的には書かれていない。ただ、「女1」「女2」「女3」「女4」「女5」「男」と書かれているだけだ。登場人物相関図はこれだけではわからない。しかし、冒頭、それぞれが自己紹介的なセリフ(モノローグ)を言う。
「女1 あなたを愛している私」
「女2 あなたに愛されたかった私」
「女3 それでもあなたを愛していた私」
「女4 本当はあなたを愛していた私」
「女5 店員・医者・あるいは私」
「男 私の愛している、あなた」
なるほど、「女1」から「女4」は「私」の分身(多面的な「私」の構成要素)である。「女5」は他者性が強くなるが、それでも「私」の一部でもある。「男」は他者(あなた)であるが、「私の愛しているあなた」であるということは、「私」の投影であり、その意味では「私」の一部(拡張)である。およそ「私の世界」というものはそういうものであろう。人物も風景も世界史的な出来事もすべて「私の世界」の一部である。
ストーリーの説明は困難である。やってやれないことはないかもしれないが、あまり意味のあることではない。すべては自己内対話である。他者の自己内対話に耳を傾けるのはそんなに容易なことではない。私の場合、最初の15分ほどは何が語られているのかわからなかった。支離滅裂な言葉の氾濫。しかし、途中から、自己内対話のリズムに同調できるようになってきて、サーフボードの上でバランスがとりながら、言葉の波に乗って、あるいは波頭をかいくぐって、自己内対話についていけるようになった。これは不思議な感覚であった。
自己内対話というのは、日常的に誰もがやっていることである。「男1 ランチは何を食べようか」「男2 トンカツはどうだろう」「男1 ちょとカロリーが気になるな」「男3 サンドウィッチにコーヒーなんかはどうだろう」「男1 う~ん、朝もパンだったからな・・・」などなど。でも、こういう表層的なものではなく、深層的というか、ふだんはあまり表面に出さないように(意識しないように)している「私(たち)」が登場してくる自己内対話はスリリングである。いわゆる「自分と向き合う」ということであるが、それはエネルギーがいる。覚悟がいる。それをあえてするのは、怖いもの見たさという快感もあるかもしれないが、主として、存在論的不安の増大のためである。抑圧している「私」が私を不安にさせるのだ。息苦しくさせるのだ。
「女5」が「女1」に言う。「お話、聞かせて下さい。あなたの話を。あなたという空っぽの器の話を。気に障りましたか、空っぽ・という言い方は。」「女1」は答える。「多少。・・・確かにそれは、私と言う器は、満たされている、とは言えないかも知れません。でも、空っぽとは違うかも気がします。それはもしかしたら私の希望的観測なのかもしれませんが。」こうして自己内対話が本格的に始まったのだが、水槽の中で語ることはなかなかに困難である。途中で酸欠状態になり、何度も息継ぎが必要である。脚本に書かれたセリフそのものを演出家は変えることはできないが、その酸欠状態や息継ぎの仕方をどうやって表現するかが演出家の仕事であろう。
実は、『水棲のアリア』を立夏が演出するのはこれが二回目である。最初は、2016年の6月、阿佐ヶ谷の「アートスペース・プロット」で。私はその芝居を観ている。もう細部の記憶はあいまいだが、そのときのブログは→こちら。
今回の演出では、登場人物たち(私)のもがき苦しむ様子がフォーカスされていたようである。それは舞台狭しと(実際狭いのだが)動き回る登場人物たち(よく衝突しないものであると感心した)のその動きや、ときおり息継ぎのために水槽の外に顔を出すような所作によく表れていた。そうしたもがき苦しむ身体所作、そして表情と、彼らの口から出る詩的なセリフのコントラスト。それを際立たせることがおそらく今回の演出の意図なのだと思われる。最後、「女1」の両腕を手首のところで縛っていた紐がほどかれ、彼女が楽に呼吸できるようになり、とてもやわらいだ表情で舞台を去っていくところで、われわれ観客もまた深く安堵の息をしたのである。
劇場を出たのは8時半。
蒲田に戻り、閉店間際の「ちよだ鮨」でかんぴょう巻きとヤリイカの握りを購入(全品半額)。
帰宅して食べる。ちょうど時刻は午後10時で、『オー!マイ・ボス!恋は別冊で』第9話をリアルタイムで観ることになった。「仕事か結婚か」。古風な問いの設定であるが、主人公は仕事を選択した。しかし、これで終わるとは思われない。来週の最終回でどんなハッピー・エンド(そうなるに決まっている)が用意されているのであろうか。編集長(菜々緒)と副社長(ユースケ・サンタマリア)との恋(?)の行方も別冊的に気になるところである。
風呂から出て、『ジェット・ストリーム』を聴きながら、今日の日記とブログ(写真のチョイス)。
1時半、就寝。