相模が丘の住宅街を南北に貫く全長1.6kmの緑道「仲良し小道」がある。この小道には64品種、220本の多種多様な桜の木(十月桜、冬桜、椿寒桜、修繕寺寒桜、寒緋桜、大漁寒桜、河津桜、ソメイヨシノ、椿寒桜、 鬱金桜、御衣黄、陽光桜、アーコレード、御座の間匂、兼六園熊谷など)が植栽されており2月から5月迄次から次に咲くいろんな桜を楽しめることから「さくら百華の道」と呼ばれている。先月末桜の女王「ソメイヨシノ」も花散り葉桜となっている今、なんとも珍しい淡黄緑色の八重咲きで大輪の桜「ウコン」(鬱金)が開花、ピークをやや過ぎ紅色を帯びている。この桜はバラ科サクラ属、オオシマザクラを母として生まれた日本原産の栽培品種のサトザクラ群のサクラである。名前はショウガ科のウコンの根を染料に用いた鬱金色に由来し別名は「黄桜」、「鬱金桜」と呼ばれる。(2104)
相模原市南区下溝に四季の植物、花の絶えない「県立相模原公園」はある。クスノキキゲートを入った「みんなの花壇」のチューリップも美しいが、今「芝生広場」から「イベント広場」かけての遊歩道100mに渡って群植されている瑠璃唐草の「ネモフィラ」が集合美を見せ始めているがまだ序章である。「ネモフィラ」はムラサキ科ネモフィラ属の北アメリカ原産の一年草である。「ベビーブルーアイズ」とも呼ばれている。一つ一本は本当に小さな愛らしい花であるが、森の妖精のような澄んだブルーの花が愛らしい。細かく切れ込んだ葉が密に茂って自然に分枝して咲きながら大きくこんもりと成長していく。あと一週間もすれば満開となって咲き揃いブルーの絨毯を敷き詰めたかのように一面を彩り「ネモフィラワールド」を作りあげてくれるだろう。(2104)
大和市上草柳に引地川の水源地を中心に国道246号を挟むように42haの森が整備されている「泉の森」と北側の旧国道246号線から南側の東名高速道路までの9haの引地川を中心に各種広場花壇がり四季の花が絶えない「ふれあいの森」という2つの公園がある。「泉の森」は美しい水の湧き出る引地川の源流、大和水源地一帯の樹林地、自然林や水源を巧みに生かした「湿生植物園」、「せせらぎ広場」、「野鳥観察デッキ」、「郷土民家園」、「ふれあいキャンプ場」、「自然観察センター・しらかしのいえ」、その前には「しらかしの池」と日本最初の木製の斜張橋「緑のかけ橋」、「水車小屋」などがある。「しらかしの池」外周の遊歩道・散策路にはレンプクソウ科 / ガマズミ属の初夏を代表する花木「オオデマリ」(大手毬)が数本植栽されている。真っ白なボール状の花を木全体につけひときわ鮮やかである。花序はガクアジサイに似て、中心部に小さな両性花があり、花弁が変化した白色の装飾花が縁取りのように取り囲んでいる。(2104)
台東区上野公園の「西郷像」の裏手の木立ちに隠れるように「彰義隊の墓」がひっそりと建てられている。彰義隊は旧将軍「徳川慶喜」の護衛を目的として、慶応4年(1868)に旧幕臣頭取・渋沢成一郎、副頭取・天野八郎らにより結成された「軍事組織」(部隊)である。江戸幕府より江戸市中取締の任を受け江戸の治安維持を行ったが「戊辰戦争」の一環である「上野戦争」で明治新政府軍に敗れて解散した。この墓所地は彰義隊隊士の火葬場の跡地である。墓碑の高さは7.6mで山岡鉄舟による「戦士之墓」の文字が刻まれている。上野のすぐ近くの南千住に「円通寺」に彰義隊士のお墓と当時激戦区だった「寛永寺」の「黒門」が保存されている。(2103)
大和市上草柳に浄土真宗の寺院「草柳山善徳寺」は鎮座する。創建は天正年間(1573~1592)。本尊は阿弥陀如来像。「寺号標」より広がる境内中央に「本堂」と寛政8年造の「梵鐘」は戦争のため国に供出したがそのまま戻されたという「鐘楼」がある。また堂建立時に発見された「銅造釈迦誕生仏立像」は大和市重文財に指定されている。更に戦時中、境内には「学童集団疎開用の寮」碑、「高座海軍工蔽に動員された台湾少年工の宿舎」が建てられていたことから「戦没台湾少年工慰霊」碑が建てられている。「寺号標」そばと、「庫裏」と「本堂」の間、境内の各所に植栽された白、赤、ピンクのボタンが30株が気品に満ちた豪華な大きな花房を披露し彩っている。当寺のすぐそばには緑と花と水に溢れる賑やかな「ふれあいの森」が隣接しているが静寂そのものである。(2104)