津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「堀内傳右衛門覺書」‐(25)

2024-11-26 07:32:45 | 堀内傳右衛門覺書

(107)    
(富森)助右衛門は唯今御聞被成候通、十左衛門樣内蔵之助へ御挨拶被成候は、今日吉良左兵衛事、今度之仕形不届に思召候故、領地被
 召上、諏訪安藝守樣へ被成御預候、此儀我等心得にて、御噺被成との事にて、扨々本望奉存候、乍此上老母事被附御心被下候へと被申候
 故、得貴意候と申候へは、辭世と戒名も少前に書付遣被申候
   春風獨讃       冨森助右衛門
    四日は姉の忌日なれば
   先立し人もありけり今日の日を 終の旅路のおもひでにして
(108)    
一巻紙に書付置候故不具候、其後助右衛門旦那寺、淺草の長延寺へ致參詣申候へば、位牌有之、戒名黑塗に金粉にて書付有之、日付とては
 可有之樣もなく、助右衛門存世の内節々參詣被仕、とくより調置被申候由、住持咄被仕候
   但書狀之書付、在所は播州加西郡北條に而、渡邊與右衛門と申者にて御座候、同國加古川本陣、中屋與右衛門に被仰付候へは、北條
   村へ早速相達申候、道のり加古川ゟ五里程御座候
(109)    
潮田又之丞も、辭世又は通し申所を書付、少前に遣被申候、播州加西郡北條村、同國加古川本陣、中屋與右衛門所に頼候へは、北條村へ
 卽刻通し申候事に候、加古川より北條へ五里有之候、我等下着候はゞ、直に可申聞候、其内慥成便も候はゞ可申遣候
   武士の道とはかりを一筋に 早水おもひ立ぬる死出の旅路に
(110)    
早水藤左衛
は、御家に前廉居被申候早水助兵衛、亡父と別て咄覺居申候、御暇被成候刻、古町の光明寺右助兵衛聟故、彼寺へ引取居
 候事覺居申候に付、熊本光明寺と申寺は、御存被成候哉と被申候、知人にては無御座候へとも、承り及申候と申候へは、辭世を書て給
 候
   地水火風空のうちより出し身のたとりて歸る本のすみかに
(111)    
赤埴源蔵は、此間より如御存、小瘡出來いたし、致難儀候へとも、御懇にて本道外科衆御附被成候故昨日より快、今日 上意にて切腹仕候
 段、本望奉存候、此旨土屋相模守樣御内、本間安兵衛と申者に御通被下候へと被申候、相模守樣に、今枝彌右衛門と申者、御取次相勤居
 申候は、我等縁者のものにて、其方へ相頼、早速知らせ遣し候
(112)    
奥田孫太夫は、内々御咄申候樣に、一類共へ御咄被下候へと被申候、少前に若き衆と咄居被申候、傳右衛門殿私は切腹の仕様不存候、い
 かゞ仕ものにて候哉と被申候、我等も終に見申たる事も無之候、三方に小脇差出候樣に承候、肩衣を御抜不被成内か、兎角なとゝ申内
 に、助右衛門其外若衆、扨々不入稽古、いか樣にも不苦候、唯首を受討たれたるか能可有之なと被申談止申候、夫故色々遅速、或は首
 を受て居被申候衆も有之たると後に承り候、林兵助・村井源兵衛・拙者三人は、御座敷の内に居申候、何れもへ挨拶なと仕候に付、切腹
 の場へ出不申候、十七人衆いつれも、茶たはこなと給咄被申、常に少しも替り不申、其筈之事なから感入たる事
(113)    
(矢田)五郎右衛門は、内々御咄申候樣に刀を打折申候て、相手の刀を取候て差居申候、一類共いな事と可存候間、御咄申置候間、御通
 し可被下候と被申候に付、少も被懸御意間敷候、委細に通可申と及挨拶候、御町奉行松前伊豆守樣御與力に吉川熊次郎と申仁有之候、右
 熊次郎は、五郎右衛門叔父にて、尋參候て具に咄申候へは、悅にて候、五郎右衛門子息作十郎は、御旗本衆之内縁有之幼少故參被申候事
(114)    
(大石)瀬左衛門は、大石無人子息郷右衛門父子へ、今日の首尾を御通し被下候樣に被申候、近日參咄可申と申候、其後津輕越中守樣御屋敷へ參候て、無人と郷右衛門・三平父子三人へ知人に成り咄申候事
(115)    
一右十七人座配、次第のごとく、一番に内蔵之助殿、御出候へと、吉弘嘉左衛門・八木市太夫兩人にて呼立、切腹場に伴ひ申候、内蔵助殿
 呼候時、潮田聲を懸、内蔵之助殿、何れも追參可申と被申候事
(116)    
一右之通段々に罷出被申候、嘉左衛門・市太夫、内蔵之助殿首尾よく御仕廻被成候、忠左衛門殿首尾好御仕廻被成候と、毎度申候に付、拙
 者指圖いたし候は、首尾好との事を不被申候共、唯名計御呼立可然候、介錯人も次第のごとく、待被居候故と申候へは、氏家平吉(傳
 右衛門従兄弟)承り、尤に存候、あの衆の首尾能はいらぬものとて、わらひ被申候事

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ■着物の着付け | トップ | ■閑話休題「さむがり内蔵助」 »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
荒木十左衛門政羽について (荒木幹雄)
2024-12-09 00:06:47
荒木村重研究会会報『村重』第15号に私が書いた内容を、蛇足ですが書かせて頂きます。

元禄十六年(一七〇三)二月四日、荒木村重の従兄弟荒木志摩守元清から五代目の子孫である幕府旗本千五百石の荒木十左衛門政羽(まさは)は、幕府目付として江戸の細川藩邸の赤穂浪士十七人の切腹に立ち会った。荒木十左衛門政羽は、大石内蔵助良雄に幕府の決定として切腹を申し渡した後に、申し渡しとは別の個人的な話として、本日吉良上野介嫡子義周(よしちか)が 改易され、諏訪藩へ御預けと決まった事を伝え、 皆には本望であるに違いないと思う、と述べた(亀岡豊二編纂『赤穂義士史料中巻』雄山閣、一九三一年、「細川家御預始末記」 三 一~ 三 二 頁)。 この後大石内蔵助良雄は落涙の体で、有り難き事、と他の赤穂浪士に義周処分を伝え、その後に荒木十左衛門政羽の前で切腹した(『鍋田晶山赤穂義人纂書一』 赤穂義士資料大成、 矢留的発行、 日本シェル出版、一九七五年、「堀内伝右衛門覚書」三三六~三四〇頁)。
返信する

コメントを投稿