寛永二十年(一六四三)
正月二十日
「今日江間紹以依赴河内北條久太郎公、而書状言傳也。伊藤長兵衛筆書扇子一本、投于北久太公也。」
河内に江間を遣わし、北条久太郎に正月の礼として伊藤長兵衛筆書の扇子一本を贈る。
(伊藤長兵衛は当時の著名な絵師である)
寛永二十一年・正保元年(一六四四)
三月二日
「今曉自江戸、書状來、予姉光壽院殿之訃音、驚肝膽也。光壽院逝去之儀二付、自新庄新三郎殿、飛脚來。」
朝早く、江戸よりの書状が届く。姉、光寿院殿の訃報なり。肝が潰れるほど驚いた。新庄家よりも書状が届く。
(我が家の菩提寺である近江高島・幡岳寺の過去帳には寛永二十年二月二十日が命日と書かれている。一年の違いがあるが、過去帳の写し間違いと考えられる。東京高輪・広岳院の過去帳には、正保元年二月二十一日と書かれていて、この日記と一致している)
三月十五日
「光壽院殿之儀二付、佐久間備前殿之息女池田下總殿之後室乾徳院殿之飛脚也。昨日飛脚今日於晴雲軒、認返翰、渡飛脚也。」
光寿院殿の儀に付き、佐久間備前殿息女、池田下総殿の後室、乾徳院殿の飛脚が来る。晴雲軒で返書を認め飛脚に渡す。
(姪からの書状への返書を書いた。晴雲軒は相国寺内の庵)
五月二十三日
「加州前田肥前守殿之内、宮木内贓允書状來、藜杖壹本被恵之也。自芝山内記公、被相届也。」
加州前田肥前守殿の家臣、宮木内蔵允から書状が来る。藜杖一本を贈りたいとの事。芝山内記が持参する。
(加賀藩四代藩主・前田光高の家臣の手紙で、アカザの茎でできた杖を贈るとの事。アカザの茎は硬く丈夫だが大変軽いもの。そのゴツゴツした形状が胡桃のように、手の神経を常に刺激して中風の予防になると信じられていた。宮木内蔵允は光高の御傍衆で五百石取りの者)
六月十三日
「明智日向守秀岳居士諷経、如例年。」
(明智光秀の為の読経を例年この日にしているそうである。光秀の命日であるが、何か特別な所縁でもあるのであろうか。本能寺ノ変の時に現場にいた父である晴豊の意向だったのかも知れない。晴豊は本能寺ノ変の後、光秀の娘を匿ったと言われる)
六月十七日
「自河内、北條久太郎公之内、佐久間晴左衛門書状來、品川海苔壹箱恵之也。」
北条久太郎の家臣である佐久間清左衛門の書状が来て、品川の海苔を一箱贈るとの事。
(江戸品川の海苔は高級なものだったのか)
七月九日
「光壽院殿之被召使古川仁左衛門、自江戸、上洛仕。爲光壽院殿之吊、登高野山也。其次光壽院殿之爲遺物、三色自江戸也。江間紹以爲案内者、古川仁左衛門來于晴雲軒、相逢也。於芝山大膳公娣、而自光壽院殿之遺物來。蒔繪文箱壹ケ・物語料紙貮部來。爲持、相届也。明朝於北山、來古川仁左衛門可振舞之旨、申談也。予今晩歸山也。」
光寿院殿の召使古川仁左衛門が江戸から上洛。高野山からの帰りに来訪。光寿院殿の遺物を持参する。相国寺の晴雲軒で会う。芝山大膳公とも会う。遺物は蒔絵文箱一個、物語料紙ニ部也。仁左衛門を振舞う。
(高野山にある光寿院の墓に参り、その帰りに家臣が和尚に会いに来た。光寿院の形見分けをして行ったようである。芝山大膳とは、和尚の兄・光豊ので勧修寺。光寿院の甥。芝山家は、この宣豊を初代として代々歌道の家となり明治維新後に子爵となる)
十日
「朝、自江戸、來古川仁左衛門振舞也。爲案内、江間紹以亦招也。於書院、相伴、點濃茶、而歸。則返書共遺渡之也。其次、袴・肩衣壹具遺古川仁左衛門也。仁左衛門今日赴西賀茂之北川左兵衛所。依然、案内者相添、遣也。自西川忠味、索麺一折五把、爲盆之柷儀、被恵之也。黄昏能喜來過。自懐中、小食籠取出、持参雲門・肴被恵之。乗月、而擧一盋、打談也。」
仁左衛門に返書と袴、肩衣一具遣わす。仁左衛門今日は西賀茂の北川左兵衛の所に逗留。
(和尚は祝儀や、色々な土産を持たせ楽しい時間を過ごしたようである)
九月十七日
「予所持之貫之筆之大色紙之掛物、北條久太郎公借用支度之由、依懇望、令許借也。卽於江間紹以所、而爲持、遣之也。自江紹以、於北條久太郎公、而相届也。掛物之箱者、不遣也。」
明日の北野での能会の為に、北条久太郎公に江間を通して紀貫之筆の大色紙を貸す。
(紀貫之の色紙とは、佐久間将監が大徳寺の塔頭・寸松庵に持っていた物と関係あるのであろうか)
十月二十七日
「晴天、風吹也。天壽院殿贈内府路岩眞徹尊儀之三十三白之遠辰也。予家兄也。大納言光豊卿也。於晴雲軒、小齋也。」
(和尚の兄、大納言・勧修寺光豊の三十三回忌の法要を行ったようである。光豊は父である晴豊の後を継ぎ、後陽成天皇の武家伝奏を務めていた。は神事の一つ)
十二月八日
「晴雲院殿之正當之月忌故也。」
(和尚や光寿院たちの父である勧修寺晴豊の正月命日。我が家の菩提寺である近江高島の幡岳寺の過去帳にも八日と書かれている。慶長七年十二月八日五十九歳で亡くなっている。後陽成天皇の叔父で、誠仁親王の義兄にあたる)
正保二年(一六四五)
正月十六日
「自豊後之久留嶋丹波守殿、書状來。大竹壹本來、花筒之竹也。至河内之北條久太郎公、而來、自北久太公、竹被相届也。江間紹以相届也。於晴雲軒、見之也。大竹壹尺一寸九分有之也。」
豊後の来留嶋丹波守から書状と共に大竹が一本送られてきた。花筒用の竹なり。河内の北條久太郎からも竹が来る。江間が届けて来た。
晴雲軒で見ると、一尺一寸九分の大竹なり。
(三十五センチ位の竹だから大竹とは太さの事であろう。丹波守は佐久間安政の娘で、和尚の姪が嫁いでいた豊後森藩二代藩主・通春のこと)
二月二十一日
「光寿院殿之小祥忌也。北条久太郎公内梶原大學、佐久間清左衛門兩人上洛被仕。」
(光寿院の一周忌。河内狭山藩・北条氏の二人の家臣が上洛。命日には幡岳寺の過去帳と一年と一日のずれがある。過去帳の写し間違いだと思われる)
正保三年(一六四六)
正月十二日
「北条久太郎内、自佐久間清左衛門方、守口漬香物一桶被恵之也。」
北條の家臣・佐久間清左衛門より守口漬を一桶戴く。
(当時より守口漬は河内の名物だったようである)
七月二日
「中和門院十七年之御忌御正之月也。」
(中和門院の十七年の正月命日。中和門院は後水尾天皇の母で、後陽成天皇の女御。近衛の娘の前子。和尚の母・寿光院は前久の姪にあたる。しかし、この時代の女性は名が付けられていないのか記録や系図を見るととだけ書かれている事が多い。武家などは院号(戒名)しか判らない。高貴な公家などの娘には名が与えられていたようであるが、それも父からの一字を取って付けられている。この場合も、サキコかゼンシと読むようである)
正保四年(一六四五)
五月八日
「嵩陽寺殿秀山大居士例年経詠。今年至大坂陣、三十三年也。内大臣秀頼公三十三遠忌也。今年牌前盛物十六ケ也。
(大坂ノ陣から三十三年。豊臣秀頼の三十三回忌の供養を行っている。公家多数と狩野探幽も列席している)
十一月八日
「自芳春院、能登干瓢一折十把被恵也。名物也。白玉椿一輪是叉被恵之也。」
(紫野・大徳寺の加賀藩所縁の塔頭・芳春院の二世である玉舟宗番から、能登名物の干瓢と椿の贈答品。宗番は慶安三年二月には大徳寺の住持となる)
十二月二日
「今日、於大徳寺延壽堂、有切腹之者也。長岡三齋公之者、三齋公之追腹也。三齋公大祥忌也。浮津彌五左衛門云仁也。」
(細川忠興の三回忌に、家臣だった者が墓前で殉死したようである。寛文三年(一六六三)に武家諸法度により殉死は禁止されたが、その後も見られたので、天和三年(一六八三)には完全に禁止された)
慶安元年(一六四六)
四月五日
「池田新太郎殿金閣為見物、當山來過之由、為案内者、出宗閑也。」
(新太郎は備中・岡山藩主・池田光政の事である。和尚の姪(安政・光寿院の娘)が備中・松山藩主・池田長泰の後室だった)
慶安二年(一六四七)
正月二十八日
「江戸北袋・市袋・桑山修理太夫殿江遺書状、江間紹以所迄遺之也。如例年、年玉共遺之。」
(姪やその子への例年の新年の挨拶とお年玉を江間に持たせている)
慶安三年(一六四八)
十一月二十九日
「自江戸、書状來、如例年、従北条隋光院、綿子、従毛利清光院、絹一疋幷白綿子百目被恵之也。」
(安政と光寿院の娘で、北条氏宗の母と毛利高直の母から贈り物があった様子。どちらの名も判明していなかったが、今回初めて院号を知る事ができた)
十二月十日
「河村源介相尋。扇子二本入箱恵之。予相対。以錐亦被出、被逢、吸物浮盃也。源介今者浅野内匠頭殿之内奉公仕之由也。先年佐久間日向守小性也。」
(佐久間日向守とは飯山二代藩主の安長。三五郎安次の父である。安長は寛永九年四月に二十二歳で亡くなっている。その小姓をしていた源介は、播州赤穂藩の浅野内匠頭長直に再仕官したようである。寛文元年(一六六一)の赤穂城築城の折りの奉行に、その名が見られる。この後に、三代藩主の長矩が江戸城内・松ノ廊下で刃傷事件を起こすのである。以錐とは相国寺の住持・)
慶安四年(一六四九)
正月十日
「今日英春院殿光月如心大禅尼五十年忌也。予娣、号御才也。」
(和尚の妹との注記であるが年代的に合わない。他の呼び方のである正親町三条室の五十回忌の日であろう)
六月二十四日
「江戸着。北条久太郎殿、乗馬侍共々高井戸迄來。自戸塚四郎左衛門先鋒遺江戸。久太郎家老・寄船越外記長屋、至久太郎屋敷。有随光院振舞。」
(和尚たちが江戸に着いたようである。河内狭山藩主・北条氏宗の江戸屋敷に泊まり、姪たちの振舞いを受けたようである)
十二月八日
「晴雲院殿儀同三司贈内相府孤月西圓之五十年忌正當也。」
(和尚の父、勧修寺晴豊五十年目の命日。我が家の菩提寺である近江高島・の戒名は、晴雲院殿義同三司孤月西円大居士となっている。
三司とは、で左・右・太政大臣のことを表す。義(儀)同でそれに次ぐ位の高い地位を表し、内相府は内大臣の事である。晴豊は亡くなった後に内大臣になったそうなので、幡岳寺のものは、贈内相府が付いていないので亡くなってすぐの戒名なのだろう。晴豊の死は慶長七年で内大臣の位が贈られたのが慶長十九年である。唐名とは中国での官職の呼び方である)
承応二年(一六五三)
二月二十三日
「今朝招板倉周防守殿之内家老渡部十右衛門尉・大須賀九左衛門尉・金子十郎左衛門尉、而出茶之湯、而振舞也。」
(和尚の日記に度々出て来るのが、当時、京都所司代をしていた板倉周防守重宗。その家臣たちを招いたようである。重宗とは公私共に親しく付き合いがあったようであるが、飯山藩主だった佐久間安政の兄にあたる盛政家の名跡を継いだと多くの史料に書かれている佐久間重行を食客として迎え、尾張藩に推挙したのも重宗であった。重行は盛政の妻の兄か弟にあたる奥山重昭の子・重成(虎姫従兄弟)の子である清兵衛だと史料に残る。重宗に対する承章や光寿院の尽力があったのではないだろうかと推測する。重宗は寛永十四年十一月に弟・重昌を島原ノ乱で亡くしている)
六月二十三日
「未之上刻、禁中悉炎上也。驚嘆、而登山上、見也。而一刻之中、一宇之御殿亦不殘、炎上、四方築地・御門一時焼滅也。仙洞江進上仕菓子見合、伺候也。」
(内裏が大火災に遭った。三種神器は内裏の文庫に移され類焼を免れたようである。台所から出火したそうである。後天皇は仙洞御所に行幸しており、和尚がそこへ菓子を献上したのである。後光明天皇は後陽成天皇の第四王子。翌年の九月に痘瘡のため、ニ十二歳の若さで御崩御される)
十月朔日
「木一折七十小原左近右衛門江令音信、遺状也。保科肥後守殿之内之者也。此前佐久間三五郎内之侍也。」
(小原は会津藩士のようであるが、飯山藩改易後に仕官したのであろう。和尚の口利きでもあったのであろうか。飯山藩の家老や、飛び地の近江・高島の代官に、佐久間氏親族の小原氏がいるが、その一族に小原左近右衛門久勝という人物がいる。滋賀県高島市今津におられる小原氏の御子孫の系図に、奥州会津・松平肥後守殿に仕えたと書いてあるので正にこの人物であろう。木さはしとは木目の箸(橒箸)の事でなかろうか)
明暦二年(一六五六)
六月二十日
「久留嶋市兵衛今晩來訊也。市兵衛上洛者生來初而之事也。跡目被仰付、當年豊後國森云在所江之入部也。」
(久留嶋市兵衛とは久留島信濃守通清。豊後の所領初入部の途中に和尚の所へ寄ったようである。父は通春、母は佐久間安政と光寿院の娘である。豊後森藩三代藩主。和尚の姪の子)
十二月十八日
「金森宗和老十五日之由、昨晩聞之也。」
(茶人で武家の金森重近の死。茶道宗和流の始祖。和尚が大変親しくしていた人物で、鹿苑寺にはその遺物が多く残る)
明暦四年(一六五八)
四月七日
「佐久間左近右衛門初而來于當山、赴賀茂刻、於馬場、而初而相対也。扇三本入恵之也。佐久間九郎兵衛息、佐久間清左衛門婿也。毛利伊勢守者也。」
(佐久間左近右衛門は豊後藩主・毛利高直の家臣。和尚と初対面で、三本の扇を手土産に持って来たようである。飯山藩所縁の一族同士の婚姻関係のようである)
万治三年(一六六〇)
正月四日
「相国寺方丈歳旦法、近年今日勤修。於菓子屋虎屋、而内々申付也。」
(相国寺での元旦祭祀が終わる。その祝いにお菓子や虎屋の饅頭を注文したようである。今も洋羹で有名な虎屋である)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
頁数五〇〇〇に及ぶ日記『隔冥記』で、その内容には実に細かく当時の様子が書かれていた。鳳林承章の飾らぬ性格から来る身分を問わない人脈の広さにも驚く。
その中でも、実家である勧修寺家との繋がりを大切にしている様子がはっきりと判った。姉である光寿院や嫁ぎ先の飯山佐久間家、それから広がった姪達やその息子達との交流、その過程で多くの佐久間姓の家臣も判明した。それらは今後の佐久間一族研究の大きな課題となったのは間違いない。
参考文献
『隔冥記』鹿苑寺本
『隔冥記』思文閣出版本
『家光大奥・中の丸の生涯』遠藤和子著(小石川ユニット)
『新訂寛政重修諸家譜』(続群諸類従完成会)
『尾張群書系図部集・上』(続群書類従完成会)
『信濃佐々礼石・中』橘鎮兄著(會真堂)
『飯山町誌』(飯山市公民館)
『系図纂要』(名著出版)
『勧修寺系図』
『公家諸家系図』
『宮廷公家系図集覧』(東京堂出版)
『佐久間家法名』(広岳院過去帳)
『佐久間・柴田家法名』(幡岳寺過去帳)
『吉井藩領主系譜』小林外記良昌著(群馬県吉井町郷土資料館)
『飯綱の地を開いた‘殿様’佐久間兄弟と長沼藩・飯山藩』(いいづな歴史ふれあい館特別展図録)
拙稿「初代金沢城主・佐久間盛政の系譜」(同人誌「櫻坂」十四号)