稲盛『哲学』と聖書の思想、第3回です。
今や4200人を超える世界の経営者が、求めて学ぶ稲盛思想~~稲盛さんはそれを「高尚な哲学」を作ろうとして考えたのではありません。
「よき人間、よき世の中を作っていくためには、どういう考え方を樹立したらいいか」という、身近で実践的な課題に取り組んでいて出来ていった思想だという。
<科学知識は哲学思考の一部>
そしてそれは科学ではなく哲学というべきだ、と考えます。
稲盛さんは科学知識というものは、元来哲学の思想の中に含まれていたものだ、と考えるのです。
そのうちで仮説として論理的に記述され、検証されたものが科学知識になる、という。
そういえば、物質の最小単位が原子であるという思想は、既にギリシャ哲学の中にはぐくまれていました。存在論としてのアトム論がそれでした。
その段階では、アトム論は科学知識ではありませんでしたが、1000年に以上後に検証されて科学知識になりました。
<科学知識は存在の一部分に対応する知識>
科学知識はそういう限定的なものですから、基本的に包括的ではなく、存在を部分的に説明する部分的なものになります。
検証されて確実になったものだからといって、それだけから限定的にものを見ていったら思考は総合性を失います。
<実践に欲しいのは総合的知識>
ところが、「よき人生を送るため」とか「よき世の中を作るため」とかに役立つ考え方を作るには、なによりもまず包括的に考えることが必要です。
この要求に応じるには、知識が五感ベースで"確かめ”られ検証されているかどうかに縛られていてはならない。科学的にではなく、哲学的に思考することが重要だと稲盛さんは洞察するのです。
にもかかわらず、現代日本では科学的に思考することばかりに重きを置く傾向が強い。それはまちがいだと、稲盛さんは断言しています。時の大勢に流されず、乞う洞察されるところから、稲盛さんの卓越した知力をうかがい知ることが出来ます。
<科学知識は「使う」もの>
とはいえ、稲盛さんは、科学知識など無用の長物だというのではありません。
むしろ、検証された科学知識は、思考を確実に進めるために大いに使うべきだ、という姿勢です。
この点、松下幸之助さんとは異なっています。
松下さんは、明治の人ですし、小学校を出るかでないで丁稚奉公に出た後、実践現場一筋できた人です。
松下哲学はありますが、それはほとんど松下さんが現場体験から抽出し精錬したもので、科学知識をフルに活用するということはありません。
他方、稲盛さんは戦後理工系の大学で学んだ方です(鹿児島大学工学部)。
だから、科学知識を意識的に探索し、もちいます。
ただ、それだけに縛られた思考は避けるということです。
次回に、稲盛さんが科学知識を援用して哲学思想を形成していく事例を覗いてみましょう。