<宇宙の存在価値は?>
前回、稲盛さんは、科学知識をもちいて「人間の一人一人がみな宇宙を構成するに必須な存在だ」という見解を引き出したことをみました。そういう意味での存在価値が人間にはある、というわけです。
けれどもそれは宇宙に存在価値がある限りに言えることです。宇宙に存在価値がなかったら、それを構成している人間にも価値などないことになります。
<創造主の存在があってはじめて宇宙の存在が“説明”できる>
これはどう考えたらいいか。
稲盛さんは、この問題には直接対面はされておりません。
代わりに、意志を持った創造主が宇宙のすべてを創った、と考えてしまいます。そして「それがあってはじめて宇宙という存在が“説明”できる」と述べています。
確かに、この膨大にして神秘を含む宇宙はどうして存在するかについては、創造主がそれを存在せしめたから、ということでもって根拠付けることができます。
しかし、それが存在価値を持つということについては、おそらく創造主には絶対的な価値があり、その方が意図を持って作られたのが宇宙だから、というようなことになるでしょう。それも含めて、稲盛さんは「創造主を考えに入れてはじめて宇宙が“説明できる”」といっておられるのでしょう。
稲盛さんは、価値論のあたりは、あまり理屈を細かく述べることはされないのです。
<創造主を持ち出したのは>
むしろ、われわれが注目すべきは、創造主なるものを持ち出す際の稲盛さんの思考過程です。
稲盛さんはこう考えます。
~~この膨大な宇宙に、エネルギー不変などの法則が貫いている。それらを知るにつけ、こうした宇宙を司る「サムシング・グレート」(偉大なる何ものか)の存在を感じざるを得ない、という科学者は少なくない。
だけど、そういう漠然とした“感じ”(フィーリング)だけでは不十分だ。もっと具体的に、意志を持って宇宙を創った創造主が存在すると認めないと「よく生きるための考え方」は出てこないのだ~~と。
ここは稲盛哲学の真骨頂がかかわるところです。
稲盛さんのめざすのは、人間がよき人生を送るための「考え方」です。その考え方は「規範(則るべき行為の基準)」を含むことが不可欠なのです。
そして、根拠の確実な規範をうるには、創造主が宇宙にいかなる意志をもっているか、いかなる意図を持って作ったのかを、明確に浮上させねばなりません。
その為には、宇宙を創った存在は、サムシング・グレート(何か偉大な存在)といったような漠然としたものでは不十分だった。
聖書に近い、創造主でなければならなかったのです。