「稲盛『哲学』と聖書の思想」第6回です。
前回、稲盛さんは宇宙について、それを創った創造主が存在する、と判断した、と紹介しました。
創造主というのは、聖書の全体に流れる概念ですが、稲盛さんは聖書の考えを直接援用しているようには見えません。
なにか神様のようなのがこの世を創ったという考えは、古事記などの日本神話をはじめたくさんあります。沢山あるその種の思想の中で、聖書の特徴は、その記述が最初から最後まで「創造主からのメッセージである」とするところにあります。
だが稲盛さんは、そういう考えを直接援用することはせず、ただ、「宇宙のすべてを、意志をもった創造主が創った」とする。そうしないと「よき人生を送るための哲学」への思考は進まないと判断するからです。
<思考は進む>
実際そうすると、考えは進みはじめます。
では、創造主とはどういう存在か? とか、
創造主の意志とは何か、とか、
宇宙や人間をどういう風に創っているのか?
その中で人間はどう生きることを求められているのか?
~~などなどに。
稲盛さんはそれを、聖書を用いてではなく、自分の体験と学んだ科学知識、仏教、中国の古典、心霊科学の知識などをもちいて考えていきます。
<創造の意志は「愛」>
稲盛さんはたとえばこう思考します。
~~宇宙は科学で発見されたものも含む数々の法則によって動いている。
だがそれは単に無機的な物的な法則ではない。
森羅万象の流れは、「すべてのものを幸せな方向に進化・発展させよう」という創造主の意志によって動いている。そしてそれが愛である、と。
そしてここで仏教思想が出てきます。
~~シャカは「すべてのものに仏性が宿る」と教えた。それは、創造主の創造の意志は愛であることを洞察してのことである、と。
そして、人間もまたこの創造主の意志(愛)を存在の核に持つようになっているのだ、良心というかたちで自覚されるのもその一端なのだ~~と。
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また~~創造主はすべてを愛で包んで、よき方に進化・発展させようとしているが、人間は自由があるがために、また、肉体をもつがゆえに、かってな方向に進化するところもある。
が、同時に、創造主の思う方向に自分を向かわせる自由もある。そして、それを行うことが「心を高める」ことなのだ~~と。
こうして稲盛哲学は進んでいきます。