しばらく投稿が途絶えました。
『神とゴッドはどう違うか』(新潮選書)以来20年ちかく、キリスト教関係書物を出してきませんでした。
ひさしぶりの次作の原稿の仕上げに追われていました。
『(仮)バプテスト自由吟味者』という題名の、小さな冊子本です。
やっとできあがり、出版者に送っていま「組み版」の制作をしてもらっています。
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その後、戦後70年の時の流れのなかで増大する危険を察知して、「三島事件論」をフェースブックの方に数回連載しました。
やっと余裕ができましたので、量子物理学と聖書論理の話を続けます。
<福音理解への量子論の貢献>
量子論は鹿嶋が聖書を把握するのに、画期的な貢献をしてくれています。
従来、聖書に記録されている奇跡~「しるし」といわれます~は、そのまま「神秘的な事象」と受け入れるしかないことがらでした。
つまり「物理(科学)的な根拠が示せない」ことがらでした。
その結果、キリスト教でも奇跡をただ「信じなさい」というしかありませんでした。
そういうことなら、聖書は他の宗教の教典と同じようなもの、 となるのは道理です。
だから「宗教はみな同じですね」といわれても反論できなかったのです。
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ところが、量子力学は聖書に記録された奇跡が物理学的に説明可能であることを、示してくれつつあるのです。
従来の「しるしと不思議」の「不思議」は「意味深い物理学的事象」として理解可能になってきているのです。
<ピリポの「量子テレポーテーション」>
前回鹿嶋は~、
ピリポがある地点から消えて他の地点に現れた、という記述を量子力学の、量子テレポーテーション理論を用いて理解しました。
つまり~、
ピリポの身体はその型枠情報に量子波動が注入されていることによって成立している。
その型枠が、別の場所に移動すると、そこに注入されていた量子波動は粒子を構成しなくなって、ピリポの身体も見えなくなってしまう。
だが同時に、型枠が移動した場所ではそこに量子波動は注入され粒子化する。
こうして、ピリポの身体は出現する。
~そういう量子テレポーテーション的な理解をしたのでした。
<ヨハネの「創造論」にも>
その理論は、『ヨハネによる福音書』の冒頭でヨハネが述べている創造論理の理解にも援用できます。
今回は、それを示してみます。
ヨハネはそこで、全ての被造物が創造される様を次のように記しています。
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「はじめにことばがあった。 ことばは創造神と共にあった。 ことばは創造神であった。
この方は初めに創造神とともにおられた」(「ヨハネによる福音書」1章1~2節)
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続いて~
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「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、
この方によらずにできたものは一つもない」(1章3節)
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~といっています。
これが量子テレポーテーション理論を援用して理解出来ると思うのです。
<「ことば」の原語は「ロゴス」>
ここでのことば英語ではWordで、邦訳聖書ではそれを訳して「ことば」としています。
「ことば」の原語はロゴスで、ギリシャ語です。
(新約聖書はギリシャ語で書かれている)
ローマ字で示すと、logosですが、それは理法、すじみち、論理といった意味を持っています。
<ロゴスは量子テレポーテーション理論の「枠組」情報>
このロゴスは量子テレポーテーション理論の型枠に対応させることができます。
型枠とは、「型枠の情報」で、その情報は、被造物の設計図、青写真のようなものとイメージできます。
実在としての被造物は、多様性に満ち、かつ動態的でたものです。
だが設計図は筋道だてて論理的に構成されている。
それがロゴスに対応しているのです。
<量子波動を充填するのは創造神>
次に、型枠(設計図)が被造物を出現さすには、そこに量子波動が注入されねばなりません。
そこで、その型枠を作るのが御子イエスであり、波動の注入者を創造神であると考えたらどうか。
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すると、全ての被造物を創造するにつけて、御子イエスは父なる創造神と協働している~というイメージになります。
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まとめますと~
まず、御子が父なる創造神の意図をくんで、被造物の型枠をつくる。
すると父なる創造神はそこに量子を充填する。
こうして被造物は造られた
~となります。
量子テレポーテーションの考えを援用すると、そういう理解が成り立つと言うことですね。
<聖書的表現>
残るは表現法の問題です。
上記の聖句では、ヨハネは御子イエスを「ロゴス」といっています。
ロゴスが型枠(設計図)であれば、御子はその設計図の作り手でしたよね。
「ロゴス造り」は論理上は「御子の働きの一つ」となる。
だが、それをずばり、御子を「ロゴスだ」という。
これは聖書によくある言い方です。
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イエスの「私は道だ」というのもそうです。
その前の聖句でイエスは「私の行く道はあなた方も知っています」と弟子に言います。
「道ってどんな?」と弟子が問うと、イエスはすぐにこれを「私が道だ」といいます。
ずばり端的にいうのですが、こう言う表現を、著者ヨハネもここで用いているとみていいでしょう。
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同じく上記聖句(1章3節)でのヨハネの~
「すべてのものは、この方によって造られた」
~もそうでしょう。
実際には父なる創造神と二人で造っているのに、「この方(御子)によって造られた」という。
ヨハネは、二人で造ったのは重々承知です。
その上で御子に焦点を当てて、端的に述べているのでしょう。
今回はここまでにしましょう。