「いのち」というと我々は通常「肉体のいのち」を連想します。
だが、聖書ではもう一つ、「霊のいのち」をも示しています。
そして聖書の論理ではこちらが基盤になっています。
つまり、聖書では霊は「いのち」というエネルギー波動に共鳴してそれを充電蓄積する「充電式乾電池」のような思想になっているのです。
そしてこの充電度が、人の幸せを根底的に決めていく、ということ、こちらに教えの本質があるのです。
けれどもこれまでのところ、日本の教職者、つまり、牧師さんや神学者さんは、「肉体のいのち」だけを考えて思考し、教示活動をしています。
これには複雑な事情もあります。
「肉体のいのち」からも、聖書を用いて一定の「教え」を述べることができるのです。
たとえば、旧約聖書の「十戒」における十の戒めの中に、「殺すな」「盗むな」という命令があります。
その「殺すな」はそっくりそのまま、「人を殺してはいかんよ」という「この世」の道徳に対応していますよね。
それを「神様からの命令」として神聖な感じをくっつけて、キリスト教のありがたい教えとします。
そしてそれは「肉体のいのち」の大切さの教えだ、というように解釈を展開する。
さらに自分の「肉体のいのち」も神様からいただいた大切なものと展開します。
それを用いて「自殺はそのいただいたいのちを殺すことです。自殺してはいけませんよ」という教えを造ることも出来るのです。
<ミッションスクールではとりわけ>
こういう解釈は、日本でのミッションスクール(キリスト教系の資金で設立されている学校)などには、とりわけ有用性が高いです。
「肉体のいのち」でいくと無難なのです。
それを超えて、「霊」という「見えないもの」を述べたらどうなるか。
日本では「霊」というと、生徒も親も色んなものごとを連想しますよ。
カルトだ!
宗教は「見えないもの」をもってきて人をだます!
おどろおどろしい!
理性的でない!
~などなどの連想をする。
そこで、ミッション系の学園付きの牧師さんたちは、ますます、聖書の「いのち」は「肉体のいのち」のことだと考える状態にとどまりがちになります。
ところが、日本では学校という機関は、教会という施設より「世的な」地位が高いのです。
そこで学園付牧師は教会牧師よりも「世的な」尊敬を高く受けます。
さらに学園牧師には、学園運営者の地位への道も開けています。
キリスト教系の学園では、牧師の免状を得ている人だけがトップ経営者になれるようにもなっていることが多い。
そこまでいかなくても牧師としての給与の安定性も、学園の方が高いです。
だから、学園牧師のキリスト教解釈が、他の模範にされやすいのです。
つまり、道徳キリスト教(ニッポンキリスト教)であることが、牧師の模範となる。
その結果、日本の牧師さんは時として、「霊のいのち」などという人を、「異端!」と攻撃して、自らの身分証明を同業者に披露したりもします。
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日本のキリスト教は、いままでのところ、この状態にあります。
その結果、日本の教会は、「魅力の乏しい」施設のままです。
端的に言えば多くの大人たちには「見向きする気も起きない」建物となっているのです。