この二回ほど、ニッポンキリスト教の特質について考えました。
聖書の「いのち」が「肉体のいのち」だけで考えられて、「霊のいのち」に思いが至らない。
律法から倫理道徳論をとりだして、そこに留まっている。
「愛」もなすべき行為として律法的に考えてしまう。
~こんな特質をあげました。
今回はそれらをもたらす原因について、考えてみたいと思います。
<歴史の短さ>
まず直感的に思い至るのは、聖書を用いたキリスト教活動の時間が浅いことでしょう。
西欧では、紀元後30年過ぎにすでに、聖書に収納される諸文献が読める形になっていました。
初代教会ではその解読、吟味が驚異的に深くなされました。
このキリスト教活動からカトリック教団が生まれました。
この教団は、紀元後395には正典聖書を編集しました。
ところがその解釈を巡って宗教改革が発生しました。
さらに様々な教派が出現しました。
以後、その解釈を巡ってさらに論争も多く行われ、新たな活動方式を掲げる教派も生まれています。
それらの勢力の間で戦争もなされてきています。
こうして今日まで、2000年たっています。
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他方、日本では聖書に接せられるようになってからの期間が短いです。
ヘボン式ローマ字で有名なヘボン先生が、邦訳聖書を完成されたのが、やっと1887年(明治20年)ですから、今日までの時間はまだ130年程度です。
この活動時間の短さの故に、聖書の記述を霊的な領域にまで考えてこられなかった。
「いのち」も、律法も、愛も「行動関連のもの」を超えて考える時間が無かった。
つまり、肉体のいのちと、「倫理道徳」と行いとしての「愛」に留まらざるを得なかった。
~そういう理屈も考えられます。
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けれども、この論拠は韓国を持ち出すと、反証されてしまいます。
韓国語訳の聖書は米国長老派の宣教師たちが中国で翻訳して、1900年代に持ち込みました。
それ以来なされてきた聖書を用いてのキリスト教活動の期間は日本と大差ありません。
なのに韓国ではその聖書解読は大いに霊的な領域にまで及んでいて、いわゆるリバイバルも起きています。
人口に占めるキリスト教信仰者の比率も、日本が0.5%であるのに対し、韓国では25%に達しています。
<人生観の土壌>
やはり日本ではその精神的土壌が大きな原因になっているように思われます。
具体的には、聖書が日本に入る前の、日本における人間思想、人生思想はとても浅かった。
中国・朝鮮から入った浄土仏教が形成した人生観は、無常観の上に立った「人間死んだら極楽にいける」といった感慨のようなものでした。
我が国で人民に行き渡った積極的な人生観は、武士道でしょう。
武士道の人生思想は簡明で、「藩主のために死ぬのがベストな人生」というものでした。
これが戦国時代から江戸時代に武士階級の人々に、積極的な人生思想の形をとりました。
武士は人口の1割しか占めていない支配階級です。
庶民は取り立てて言えるような人生思想など持つゆとりなどありません。
だが、彼らもなんとなく間接的に武士道的雰囲気に影響されて暮らしてきました。
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聖書は他に類のない深さを持った世界存在論と人間思想を持っています。
そこからまた、深い人生観が出てきます。
だが、それをくみ取るだけの人生思想の土壌は、武士道だけのものだった。
聖書の思想を深くくみ取るだけの土壌は日本には育ってきていなかったのでしょう。
<列強は国民国家を実現>
この状態で、日本は幕末を迎えました。
この時、西欧列強がアジア諸国の侵略、植民地化に競ってのりだしてきました。
これらの国では、人民の意識は国家や皇帝に価値を置く状態になっていました。
彼らは「自分は国家の一員である」という意識を強くもっていた。
つまりいわゆる「国民国家」を形成していました。
西欧列強は、国家としての一体性を持って侵略行動をかけてきていたのです。
<日本は藩の連合国家>
幕末のこの時期には、日本はまだ「藩の集合国家」でした。
武士たちは自藩に最高の価値を認め、そのために死ぬのが最高の人生、と思っておりました。
庶民はその思想に間接的に影響を受けておりました。
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明治新政府の指導者たちは、この藩集合国家を国民国家に変える必要を悟りました。
西欧列強のように人民全部が国民国家の意識を強く持って一丸とならないと侵略されてしまう。
そのことを、インドや中国など他のアジア諸国の有様で確認しました。
<版籍奉還と廃藩置県を強行>
そこで、各藩主に版籍奉還をさせ、さらに、これらの藩を廃して、県にするという廃藩置県を急ぎ行いました。
西郷隆盛が主導しての荒療治でした。
こうして国民国家を急遽形成するには、武士道の人生観が非常に役立ちました。
武士道は「藩主のために死ぬのがベスト」という人生観です。
その藩主に変えて国家の元首をもってくれば、そのまま国民国家の人生思想が出来るのです。
これに天皇が待ち受けていたかのように役立ちました。
「国家」というだけでは抽象的で「そのために死ぬ」対象としは、訴求力が今ひとつです。
藩主は人格を持った人間でしたので、具体性が高く人民はイメージがしやすかった。
やはりここでも、人格を持った具体的な存在が欲しい。
それには、昔から京都に存続してきた天皇がうってつけだったのです。
こうして明治国家という国民国家が出来ました。
<清国に勝ち、帝政ロシアに辛勝>
この体制を素速くとることによって、明治日本国は中国(清国)に戦勝し、さらには、西欧列強の一つであった帝政ロシア国にも辛勝しました。
この時は、昭和40年代にやっと完済できたほどの巨額な借金を国際金融屋からしての、アクロバット的戦いだったのですが、ともかくかろうじて戦勝しました。
<国家武士道だけで驀進>
それでも植民地にされる恐怖はなくなりません。
日本はそのまま、国家武士道で驀進するしかなくなりました。
つまり、その人生観は「天皇(国家)のために死ぬのがベスト」という簡明なもののままで、それを宣伝補強しつつつき進んだ。
もう、人民の人生観が深まる機会は、なくなりました。
以後も、第一次大戦で戦勝国側に入り、漁夫の利を得て戦時好況もエンジョイしました。
戦後不況がやってくると、また戦争によっての景気回復に頼ります。
その結果、中国に侵略をかけ、さらには、米国にも宣戦しました。
これは、国家武士道しかない人生観国家がたどる自然な帰結でもありました。
民族の共有する人生思想は、かくも強固な影響を集団の進路にもたらすのです。
そしてこの驀進は、米国からに巨大な爆弾を二発食らって、やっと終息しました。
<戦後も惰性で進む>
敗戦後、戦前の国家武士道は一億総懺悔の対象になりました。
そうして、全面的に否定されるに至った。
かといって、それに代わる人生思想の資産は日本にはありません。
戦後日本は「もう思想はゴメン、無思想でいく」という社会として出発しました。
そのなかで、日本のキリスト教指導者は、従来の惰性で、「倫理道徳と愛の行為」を説く活動を続けている。
これがニッポンキリスト教の光景です。