先回、鹿嶋はこう述べました。
~日本の人間思想、人生観の土壌は伝統的に非常に浅かった。
その伝統の故に、聖書の持つ深い(霊的な)思想要素をくみ取ることが出来なかった、~と。
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でも、短所を分析して指摘するだけでは、認識は不十分で不親切だ。
前にも述べた命題が、ここにも当てはまります。
鹿嶋は、この問題に責任を持って打開策を考えておきます。
<結論から>
これは結論から先に提示した方がいいです。
言葉としては、答えは簡単です。
聖句(聖書の中の言葉)の自由吟味活動を我々人民が広くすること、~これです。
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その理由は、今年中に発刊される予定の、鹿嶋の20年ぶりの小冊子本に詳しく述べられますが、ここで一部をかいつまんで言うとこういうことです。
聖書という書物は、広大な論及内容を持っています。
それは、無限大の空間と、無限大の時間とのなかで展開されます。
そして、その内容は、目に見える物質界から霊界に至るまでに及んでいます。
こんな広大で深遠な認識対象、存在論内容を持った書物は他にないです。
<自由吟味と小グループの原則>
これを、個々人が解釈自由の原則に立って、自由に吟味します。
そして、小グループを任意に作って、そこに持ち込み、相互に吟味し合います。
すると、人の人生観も、ごく自然に深いものになっていくのです。
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もう少し追論しましょう。
聖書が述べる存在界は、たんなる「世界」ではなく、それを創造した創造神にまで広がっています。
こういう広大な世界を述べた聖句を吟味すると、人間の視野は極限にまで広大化します。
人の意識視野は「等身大を超えた領域」にまで、広げます。
その結果、政治見識も形成される。
この見識が、人民の政治能力も広く形成していくのです。
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またその存在内容が、霊的領域にまで至っていることによって、それを吟味する人の認識力をこの上なく深めもします。
それが人民の知性レベルを深めていくのです。
<何故解釈を個人の自由にするか>
解釈を個人の自由とする原則は、聖書のような書物を吟味・理解していくのに必須条件になります。
それは、論及範囲が「霊界」にまで至っていることと関係しています。
霊界事象の理解には五感を超えた直感能力が必要になります。
甚だ真面目な意味での、「霊感」が必要となる。
<霊感はIQとは別>
そして、人間は霊感というものを、さほど深く持って生まれては来ていません。
せいぜい、「第六感」とか、「ぴ~んと来る」とかいった認識能力だけを持って生まれている。
そうしたなかでも、素質としては霊感には差があります。
だから、霊感に比較的恵まれた人は、聖句の霊的領域の解読が深くなります。
比較的恵まれない人は、浅くなります。
これは、物質領域の認識能力、いわゆるIQではかられるような能力とは別になります。
いわゆる「頭のいい人」が霊感が豊かとは限らないのです。
<自由に置くのが決め手>
聖句解読は、当人の霊感の豊かさの度合い左右されます。
それをそのままの放置するのです。
すると、個々人の霊感認識は、フルに発揮されます。
そうすれば、個々人は、自分の解読力も、霊感も、効率よく育成することが出来るのです。
さらに、それを自分の属する小グループに持ち込んで、相互に披露しあい、相互吟味する。
すると、人の知性も霊感も、もっとも効率的に成長します。
残念ながら、日本には、この方式がほとんど導入されておりません。
だが、それは一日も早く実現すべき方式なのです。
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これに関しては、まだまだ、あります。
とりいそぎ、今回はここまでを述べておきましょう。