鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

=聖書はまず存在論として読むべき本=

2017年05月24日 | 随想

 

 

このところまた、ニッポンキリスト教について書いています。
日本の聖職者たちがキリスト教を道徳教にしてしまう。
今回は、そういうことになってしまう原因について考えましょう。

最も直接的な原因は、聖書に対峙するスタンスにあると思われます。
日本の人々は、聖書を倫理道徳論の本という暗黙の前提でもって読みはじめるのです。
このスタンスで始めると、結局は、道徳教のドツボにはまってしまいます。

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その事情を理解するためには、聖書へのもう一つの対峙の仕方を考える必要があります。
その仕方は、何よりもまず、存在論の本、世界がどうなっているかを示す本として対面するものです。
こちらから考えていきましょう。

 

<存在論とは?>

存在論といっても、それがなんたるかのイメージが湧かなかったら思考は進みません。
そこでまず、しばらく存在論について放談します。
長い余談になりますけどしかたありません。

 

<古代ギリシャのヒマ人>

存在論は哲学用語です。
哲学はBC6~5世紀ころの古代ギリシャに発生しました。
古代ギリシャには知的探索を好むヒマ人がたくさん出ました。
彼等は「この世界はどうなっているのか」を根底から知ろうとしました。
その思考が、存在論の出発となりました。

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また、この暇人哲学者たちは、同時に、人間の認識構造をも原理的に吟味しました。

「存在の本質は世界の事柄の認知を踏まえて考えることになる。自分たちのするその認識や思考はどの程度確かなのか」をも反省的に検討したのです。

これが認識論という領域を開くことになりました。

かくしてギリシャ哲学は存在論と認識論という二本のレールの上を進行したのです。
以後の西欧の哲学も、この路線の上を進むことになりました。

 


<アトム論>

ヒマ人哲学者たちは、存在するものの根源とは何か、を問うていきました。
そしてそれに関する考えは、唯物論と観念論に集約していきました。

唯物論とは、存在するものは、結局物質によって出来ているだろう、という考えです。
その代表が、なにか一種類のつぶつぶのモノ(粒子)が組み合わさってできている、という考えでした。
その組み合わせ方で、存在は土になったり、水になったり、火になったりしていると考えた。

このつぶつぶの粒子を彼らはアトム(原子)と呼びました。
だから、この考えはアトム論とも呼ばれます。
唯物論はほぼアトム論、原子論と考えていいでしょう。

 


<イデア論>

他方、別の考えをするグループも出ました。
彼らは、存在するものは、つぶつぶの粒子とかの物質ではなく、なにか人の精神、霊のようなもので出来ていると考えました。

この精神のようなものを彼らはイデアと呼びました。
英語のアイデア(idea)はこれから来ています。
日本ではこれをアイデアなどと言っていますが、もともとは、なかなか深い意味を持った言葉なんですね。

また日本ではこのイデアを「観念」と訳しました。
だからこちらは、イデア論、日本語では観念論となりました。

 

<物理学、化学を生む>

存在論のうち、アトム論のその後を追ってみます。
この思考は、後に物理学の仮説となって、この学問の出発点を作りました。
存在するものは、つぶつぶの粒子が組み合わさって出来ているという考えは、物理学の仮説になった。

そして、その仮説で調べていったら、なんと実際にそういう粒子があったのです。

かくして、物理学が出発しました。

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18世紀末頃までには、物理学者はその粒子に原子という語をそのままあてました。
そしてこれこそが究極の、もう分解できない基礎物質であると確信していました。
ところが19世紀後半になると、その粒子は一種類ではないことがわかってきた。

そこで発見された色んな種類のものを元素とし、多種類の元素が表(周期表)に整理されました。
するとこれがまた、化学の出発点になっていきました。

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このように、存在の本質を問うた哲学の知識は、予想を超えた知的産物を人類世界に産み落としてくれたわけです。

 

<聖書も存在論として読めば>

聖書も、まずギリシャ哲学者と同じく、その存在観をさぐるという姿勢でもって、読んでいったら、大きな実りがえられるでしょう。

たとえばイエスの教えた「主の祈り」における「天にまします我らの父よ」という聖句も吟味するのです。


天とはどういう空間か?
イエスはそこに居られる創造神を「父」と呼んでいるのだが、父なる創造神と天とはどういう関係にあるのか?
創造神は「天」がなければ存在しない方か?
あるいは「天」がなくても存在する方か?

両者は同時に存在し始めたのか?

これらを、多の聖句と関連付けながら考えていく。
そういう吟味は、聖書の世界存在観を浮上させていくでしょう。

 

 

<吟味素材の対比>

哲学の存在論探究と、聖書での存在論探究とには相違点もあります。

哲学で吟味の手がかりに直接なるのは、現実実在そのものです。
他方、聖書の存在論を追うとき、手がかりに直接なるのは聖句群という「言葉」の群れです。

その言葉は、旧約聖書部分では、古代イスラエルにおける預言者と呼ばれる超霊感者による、創造神と自称する方からの幻メッセージの受信記録です。

新約聖書では、聖霊の感動を受けたイエスの使徒たちが、やはり書いた言葉です。
これは今の時代の情報論で言うと「二次情報」ですね。

この二次情報の中に、世界存在の構造論理を見出していくというのが、聖句探究の中身になります。


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こういう対照もありますが、実際には似た面もあります。

いまや、物理学の分野でも分業が進んでいます。
実験物理学者が実験して現実実在から一次情報を得ます。
それを手がかりにして理論物理学者が論理体系作りをする。

このとき理論科学者が踏まえる情報は、実験物理学者が獲得した情報です。
それは二次情報にあたりますよね。

その意味で、理論物理学者は、聖書の存在論探求者と似た状況にもあるわけです。


<情報範囲は格段に違う>

吟味に用いる情報の範囲は、両者の間で格段の差があります。
物理科学が踏まえる情報は、五感がカバーする領域のものです。

他方、聖句が含む情報は、霊的世界に及びます。
両者の範囲の差は圧倒的です。

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実際、聖書はその中に、予想を超えて豊富な存在論理を秘めています。
聖句の中に埋め込まれている存在論を吟味していくと、驚くべき知識が浮上してくるのです。
この世の事象も、霊的領域の情報がないと浅薄な認識しか出来ないものが多いです。

また、聖書に埋め込まれた存在論は、とてつもなくスケールの大きな論理体系を持っています。
それを追うことはまた、吟味者の「知」を驚異的に育成してくれます。

 

<倫理道徳論と前提で読むと>

話を戻します。
日本の信仰者の大半は、自覚、無自覚を問わず、聖書を倫理道徳論の本として読んでいます。
そこから人生訓や、とりわけ正しい道徳を見出そうとして読んでいく。

ところがそうすると、聖書の場合はすぐれて、律法が浮上してくるのです。
律法とはモーセの「十戒」に代表されるもので、「・・・するなかれ」という戒めです。
これが神様から与えられた命令となっている。

そして、その律法は人間に完全には守りきれないものなのです。
その本当の姿をイエスは明かすのですが、とにかく完全な意味でとらえると守り切れない。

こういう道徳が次々に意識に浮上してくると、人間は神様からの罰が怖くなっていきます。
恐怖が湧き、増大します。
だって、守り切れないものを自分に突きつけることになるのですから・・・。

恐怖が湧けば、精神は萎縮します。
するとそこから脱出する跳躍力も弱ってしまうのです。

そうして中で、聖書のキーワードである「愛」もまた、律法的にとらえられていきます。

ニッポンキリスト教では愛の反対語が「自己中心的」となっています。
教会では牧師先生が「自己中心的!」と責めてくるし、
「自分はあのとき自己中心的でなかったか」といったよう自責の声も聞こえてくるし・・・。

こうしてますます萎縮するのです。

精神が萎縮すれば、「知」も萎縮します。
もう、惨憺たるものです。

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最後に、律法倫理の恐怖がもたらす、もう一つの帰結も述べておきましょう。
信仰者がますます聖句を探究しなくなること、~がそれです。

倫理道徳の本として読んでいけば、守り切れない律法がどんどん浮上してきます。
すると、それに直面する怖さで、聖書を読むのが苦しくなり、ついには読まなくなるのです。

日本の聖職者が聖句を探究・吟味しない大きな原因の一つもここにあります。

この状態から脱するために、とにかくスタンスを180度変えることです。
一念発起して、まずその世界存在観を浮上させようとして聖書に対峙するのです。

律法も、その全体観の中に位置づければ、その性格も真意も解読できていくでしょう。
そうすることで、倫理道徳論の側面への妥当な対処も可能になるのです。

物理学が量子力学にまで発達した今、その存在論探究が生む「知」の豊かさは、ますますすごいものになってきています。

 

 

 

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