Sightsong

自縄自縛日記

ノーム・チョムスキー+ラレイ・ポーク『Nuclear War and Environmental Catastrophe』

2013-06-29 00:06:48 | 環境・自然

ノーム・チョムスキー+ラレイ・ポーク『Nuclear War and Environmental Catastrophe』(A Seven Stories Press、2013年)を読む。

タイトルの「核戦争と環境の破局」に加え、再生可能エネルギーやベトナムの枯葉剤などについても言及している。主に、ポークが論点の提起を行い、チョムスキーがそれに答える形となっている。アフォリズム的でもある。

相変わらず、米国という怪物的な存在に対するチョムスキーの批判は熾烈だ。

それは、産官学が癒着した実態であり(原子力や製薬・バイオ技術の研究に、産業界が巨額の予算を提供している)、軍事産業を維持し続ける愚かな姿であり、世界支配とエネルギー確保のために中東に介入を続ける国のあり方である。極めて、不健全かつ危険だというわけである。

この姿は、広島・長崎への原爆投下や、ベトナムでの枯葉剤使用や、イラクでの化学兵器使用の隠れたサポートといった、血塗られた歴史の延長線上にある。チョムスキーは、それらの罪について、実証的に語っていく。

米国における地球温暖化への懐疑論は興味深い。米国の保守政治家や産業界のロビー集団は、たとえば、化石燃料を使用させ続けたい者たちの利権のために行動している(エクソンモービルが、かつて、かなりの予算を投じて温暖化懐疑論キャンペーンを張ったことはよく知られている)。それらの利権集団に対し、チョムスキーは、執拗に批判を加える。もちろん、チョムスキーは、地球規模の気候変動に対して大きな危機感を覚えているのである。

ところで、一方、日本においては、原子力利権や、オカネを使う金融業界のために、温暖化という物語を捏造したと言わんばかりの、くだらぬ陰謀論がのさばっている。

もちろん、科学的根拠が確立されているわけではない。現在の政策は、それを認めたうえで、「No Regret」の方針のもと、予防原則によって動いているということができる。しかし、懐疑論は短期的な利益だけを狙い、かたや、陰謀論は議論以前の知的怠惰に過ぎない。

●参照
米本昌平『地球変動のポリティクス 温暖化という脅威』
ダニエル・ヤーギン『探求』
吉田文和『グリーン・エコノミー』
『グリーン資本主義』、『グリーン・ニューディール』
自著
『カーボン・ラッシュ』
『カーター大統領の“ソーラーパネル”を追って』 30年以上前の「選ばれなかった道」
粟屋かよ子『破局 人類は生き残れるか』


小嶋稔+是永淳+チン-ズウ・イン『地球進化概論』

2013-06-28 08:09:18 | 環境・自然

小嶋稔+是永淳+チン-ズウ・イン『地球進化概論』(岩波書店、原著2012年)を読む。

地球はどのようにでき、どのように進化してきたか。

わたしは、高校生の時分に『地球大紀行』(NHK、1987年)に感激してしまい、地球物理を勉強することになった(情熱は長くは続かなかったのではあるが)。本書を読むと、その後も地球史の研究が大きく進展してきたことがよくわかる。つい夢中になって、1日で読了してしまった。 

本書はコンパクトではあるが、さすがに第一人者によるだけあって、包括的な内容をカバーし、議論の全体感がわかるとともに、各論も「かゆい所に手が届く」ものとなっている。いかなる専門家であっても、これはなかなかできないことだ(逆に、各論の隘路に入り込み、説明も独りよがりな本ならば何冊もある)。

本書では、たとえば各論を読みつつ「あの話とは何の関係があるのだっけ」と思っていると、それを見越したかのように、議論の全体における位置を示してくれる。また、学問としての進展のプロセスや、現在の限界も、同時に示してくれる。

通読すると、同位体の存在が、地球史という学問を精緻なものにしてきたことがよくわかる。また、熱的なバランスという観点から、プレートテクトニクスや、地磁気について議論が展開され、なるほどと思わせてくれるものがある。

素晴らしい概説書。推薦。


佐藤仁『「持たざる国」の資源論』

2013-06-21 22:53:27 | 環境・自然

佐藤仁『「持たざる国」の資源論 持続可能な国土をめぐるもう一つの知』(東京大学出版会、2011年)を読む。

 

「資源」とは何か。日本では、昔も今も、「原材料」や「食料」や「燃料」といった「物的資源」に限定した言説が大多数を占めているのではないか。アジア侵略期、大東亜共栄圏や欧米列強からの解放といった物語を剥ぎ取ったあとに視える「実」は、インドネシアなど「南方」の資源(金属、ゴム、石油など)でもあった。戦後日本の歴史も、石油ショック、炭鉱の閉山、食糧自給率の低下、尖閣諸島問題の先鋭化、シェール革命など、絶えざる「物的資源」の調達をめぐるたたかいであったように見える。

しかしそれは、唯一のあり得た歴史ではなかった。仮にそれが結果的に主流であったとしても、そのパスを変えうるヴィジョンを持つ言説は存在した。いまでも、過去のオルタナティブから学ぶべきことはあるはずだ。それが、本書のメッセージである。

資源はモノ別に独立して存在しているのではない(鉱山と水源など)。物的資源と人間との相互関係、人的資源、共有すべきもの(コモンズ)、知といった視点を含めなければ、私たちは既存の地政学の呪縛からも、可視化しないことを前提とした陰謀論からも、逃れることはできないのである。重要なことは、「あり得た世界」を同時に持っておくこと、常にオルタナティブを抱え込み、絶えず出し入れを試みることだ(ドゥルーズの「逃走線」も想起してしまう)。

本書には、そのような意味で、多くのヒントが散りばめられている。 

○戦前、物的資源の不足が為政者たちの意識の中心を占め、そのために、過剰な精神論が発達したのかもしれない。
○米国のニューディール政策、就中、TVA(テネシー渓谷開発公社)は、戦後の経済復興を希求する日本に大きな影響を与えた。その特徴は、大規模開発計画に、地域住民の福祉と草の根的な民主主義を埋め込んだことにあった。しかし、日本において力を持ちえたのは、「草の根民主主義」というシンボルが、社会主義に対するオルタナティブになり得たからでもあった。そして、結果として、水資源に偏った止まらない公共事業という形となり、国家暴力の姿にも変貌してしまった。
○資源の断片化は、地域の軽視、全体として自然をとらえる視点の伏流化を産んでしまった。資源とは財ではなく、「可能性の束」である。
○1947年に独立的組織として設置された「資源委員会」は、大局的・部門横断的な性質を持ち、多くの傾聴すべき提言を示した。たとえば、「水質汚濁防止に関する勧告」(1949年)は、先駆的なものであった。しかし、鉱業界や既存省庁からの強い抵抗にあい、骨抜きにされてしまう。もしこれが政策として実現していれば、水俣病やイタイイタイ病などの公害も回避できたかもしれないものだった。すなわち、行政の不作為であった。
○「持たざる国」、すなわち、「領土狭隘、人口過剰、資源貧弱」といったキーワードで日本を特徴づける言説は、日露戦争頃にまでさかのぼることができる。もちろん、これが領土拡張を正当化し、のちの植民地政策につながっていく。
石橋湛山の戦前期の主張(「一切を棄つるの覚悟」、1921年)は、植民地を放棄し、その管理費用を節約した上で経済関係を結ぶほうがよいというものであり、極めて大胆かつ時代の空気と対立するものだった。パイの取り分を如何に増やすかに腐心し、威力でのみ国力を考えるのは、何も当時に限ったことではない。石橋の主張は現在でも力を持っている。

「例えば満州を棄てる、山東を棄てる、その他支那が我が国から受けつつありと考うる一切の圧迫を棄てる、その結果はどうなるか、またたとえば朝鮮に、台湾に自由を許す、その結果はどうなるか。英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。何となれば彼らは日本にのみかくの如き自由主義を採られては、世界におけるその道徳的地位を保つを得ぬに至るからである。」

○個々の資源のみを経済的に判断した結果、戦後、多くのものが失われた。炭鉱は、短期的な濫掘と放棄によって、エネルギー資源としての可能性を喪失した。林業は経済的に成立しなくなり、公益的機能も軽視され、もはや公益的政策に戻ろうとしても担い手がいなくなっている。しかし、これらは、予測できた犠牲であり、常に傾聴すべき批判的言説は存在した。
○「違うあり方」の言説は、それが現実的かどうか、実現したかどうかで評価されるべきものではない。物的資源確保や市場経済最重視などの主流派の速度を落とし、再考を促すという点が重視されるべきものだ。単一の言説は危険なものである(たとえば、地球温暖化についても科学的な見方が分かれており、予防原則によって現在の政策が形成されているわけだが、残念ながら、どちらかを選べという踏絵的な言説が多く、その結果、くだらぬ陰謀論が力をもっている)。

袋小路からの脱出のために、過去の忘れさられた視点を再び可視化し、議論を喚起することができる本である。 ぜひご一読を薦めたい。

●参照
早瀬晋三『マンダラ国家から国民国家へ』(「南方」の資源獲得)
中野聡『東南アジア占領と日本人』(「南方」の資源獲得)
後藤乾一『近代日本と東南アジア』(「南方」の資源獲得)
寺尾忠能編『環境政策の形成過程』(ニューディール政策における「保全」概念)


佐々木高明『照葉樹林文化とは何か』

2013-06-07 07:45:00 | 環境・自然

佐々木高明『照葉樹林文化とは何か 東アジアの森が生み出した文明』(中公新書、2007年)を読む。

アッサム~雲南~東南アジア北部あたりを中心とする「照葉樹林帯」。それは単に、分厚くてらてらした葉を持つ木々が支配的だという意味ではなく、共通する食文化や生活文化を持つ地帯だという広い意味である。

たとえばモチ。なぜかモチ食いはこの地帯でのみ伝統的に好まれ、食べられてきた。どうやらコメだけでなく、ほかの穀物にもそれぞれモチとモチでない種があるようで、長い間、モチが選好的に栽培されてきたということだ。実はモチ食いは、サトイモ食いから続くネバネバの伝統だという。

ほかにも、食べ物でいえばナレズシ、納豆、麹酒、茶、コンニャク。生活文化でいえば養蚕、漆、竹、山での歌垣。それぞれ分布が少し異なり、時代もまちまちではあるものの、これらをまとめて「照葉樹林文化」と呼ぶというわけである。とても面白い。

モチを含め、コメの起源については、場所も時代も諸説あって定まっていないようだ。ただ、コメ栽培と照葉樹林文化とは必ずしも重なるものではなく、焼畑や雑穀など半栽培文化を経て、水田でのコメの栽培に至ったという遷移の形が著者の主張である。

それに関し、柳田國男が晩年に『海上の道』で説いたような、日本への南からの稲作の伝播や、日本を単一の稲作文化圏とみなすような考えは、イデオロギーから導き出されたものであり、もはや学術的にも否定されているという。やはり、あれやこれやが並立し、地域的にも時代的にも混淆する世界のほうが、「こうあってほしい」一元的な世界よりも真っ当である。

本書では、コメ文化と照葉樹林文化の重要な担い手として、ミャオ族(モン族)が挙げられている。現在は雲南からベトナム・ラオス北部に居住している少数民族だが、もともと、長江流域で稲作をしていたという。やがて南に移動し、国境をまたがる山の民になったというわけである。

ところで、梅棹忠夫『東南アジア紀行』では、さらに最近の移動について説いている。19世紀、インドシナ半島における山づたいの本格的な移住の原因は、中国南部における反清革命運動たる太平天国の余波が、ミャオ族・モン族を南へ追いやったのだという。そして、1000mの等高線で切って、それ以下の部分を地図で消し去ってしまうと、あとに彼らの国があらわれてくる「空中社会」だとする。とても興味深い存在だ。


モン族のふたり(ベトナム北部、2012年)  Pentax LX、FA77mmF1.8、Fuji Superia 400


宮崎県木城町の照葉樹林(2012年)


大津「でんや」の鮒鮨 (ケータイで撮影、2008年)

●参照
只木良也『新版・森と人間の文化史』
上田信『森と緑の中国史』
そこにいるべき樹木(宮脇昭の著作)
東京の樹木
小田ひで次『ミヨリの森』3部作
荒俣宏・安井仁『木精狩り』
森林=炭素の蓄積、伐採=?
宮崎の照葉樹林
梅棹忠夫『東南アジア紀行』
柳田國男『海南小記』
村井紀『南島イデオロギーの発生』
2012年6月、サパ
2012年6月、ラオカイ
2012年8月、ベトナム・イェンバイ省のとある町


寺尾忠能編『環境政策の形成過程』

2013-05-07 08:18:25 | 環境・自然

寺尾忠能編『環境政策の形成過程 「環境と開発」の観点から』(アジア経済研究所、2013年)を読む。

本書の「まえがき」にあるように、故・宇井純氏は、1970年頃の公害問題に関する論考について、「問題の歴史的展開」と「公害問題を激化させてしまったことへの反省」の2つの要素が、読む価値を左右する条件であったと述べていたという。それを受けて、本書は、さまざまな国・地域と解決対象についての環境政策形成過程を、「なぜ」という観点から、掘り下げていったものになっている。

中国の1990年代までの環境政策については、行政部門間の調整がどのようになされようとしてきたかを追う。現在でも、環境保護部、発展改革委員会、外交部などの役割がわかりにくく、さらに中央と地方の政策決定権も不透明な状況にあって(リンダ・ヤーコブソン+ディーン・ノックス『中国の新しい対外政策 誰がどのように決定しているのか』 >> リンク)、とても興味深い視点である。

タイの環境政策は、中国とはまた違った形で縦割り、かつ、調整困難なものであるようだ。本書では、マーッタープット工業団地(数年前に石油化学業界への調査で足を運んだとき、わたしはマプタプットと呼んでいたが、こちらが正しいのだろう)で発生した環境問題が、騒がれてきたわりには解決手段を見出しにくいことが示されている。

台湾では、環境基本法(2002年)において、「公民訴訟」の条項が含められた。これは、地域住民でなくても、弁護士や環境保護団体が「公益を代表して訴訟の当事者になることができる制度」であるといい、既に、環境影響評価法にも取り込まれているという。その結果として、市民の声が政治決定に入っていく参加プロセスが見えてきているようだ。日本との関連を考えた場合、これは非常に重要である。

ドイツは広く環境先進国だと受け止められているが、実際のところ、統一をはさんだコール政権期(1982~98年)では、そうでもなかった。しかし、容器包装リサイクルに関して日本でもひとつの参照制度となった枠組みが、この時期に導入されている。なぜだったのか。本書では、そのカギを、「回避すべきもの」の存在に見出している。それは、為政者の地元産業の衰退、緑の党の伸長、経済界にとってより厳しい規制といったものであり、すなわち、環境問題がマイナス要素への対決というものだけでないことを示す。

米国のニューディール政策については、「保全」という概念が、誰にとってのどのようなものであったかという視点から、変遷してきたことを示している。

いずれも非常に興味深い。この観点での研究成果をさらに読んでみたいところだ。


大木聖子+纐纈一起『超巨大地震に迫る』、井田喜明『地震予知と噴火予知』

2013-05-04 00:34:35 | 環境・自然

2011年3月11日の東日本大震災のあとに書かれた地震の本を、2冊読んでみた。(一応は、地震研究所ドロップアウト組でもあるし・・・)

大木聖子+纐纈一起『超巨大地震に迫る 日本列島で何が起きているのか』(NHK出版新書、2011年)では、この地震がどのような意味で「想定外」だったかを示している。

最近の地震研究においては、「アスペリティ・モデル」が主流となっている。これは、プレート間がすべてぴったりと固着しているわけではなく、とくに「アスペリティ」と呼ばれる箇所でのみ、ずれにくくなっているという考えである。

この形や分布には、地域ごとに異なる特性がある。チリではアスペリティがほぼ全面に広がっているため、一気にずれる際の規模が大きい。日本海溝について言えば、ずれる際には限られたセグメントの中にとどまる筈だった。しかし、実際には広い範囲で連動し、小さなアスペリティの寄せ集めではなく大きな領域にしか見えないものだった。ここに、モデルの限界があったというのである。

この教訓から、近い将来に起きる筈の南海トラフでの地震も、連動して巨大なものとなり、またその規模は単純な足し算よりも大きい可能性があることが、示唆されている。

本書のメッセージは、地震のメカニズムをのみ追い求めるのではなく、地震や津波がどのような形で起きうるかの理解を広め、起きた時の実践的な対策を詰めておくべきだということだ。納得できる考えである。 

井田喜明『地震予知と噴火予知』(ちくま学芸文庫、2012年)は、上の本よりも、メカニズムの分析に近い本である。地震発生のメカニズムやプレートテクトニクスの原理、火山噴火の原理などを説明するところからはじめ、現在の考え方や限界まで踏み込んでおり、とてもわかりやすい。

それによれば、「アスペリティ・モデル」にも、既存の地震学との整合性や、前震がアスペリティを破壊せずになぜ止まるのかといった問題点など、まだ説得力を欠くところがあるという。「アスペリティ・モデル」が「動くことを阻止する」考えであるのに対し、「動きはじめたものが止まる」ことを説明する「バリア・モデル」を示してみせている。

著者は、地震予知否定派に対して批判的な立場であるようだ。そのアナロジーとして、単純に板を折ったらどうなるかは予測できないが、すでに亀裂が入っているなら話は別だとする。活断層を含め、研究によって、漠然と相手をカオスとみなすのではなく、注視する対象を絞り込むことができるはずだということである。ただ、それでも難しいのが地震予知なのであり、地震予知は可能だという幻想を保つことによって国家予算をそこに仕向け続けたことの歪みは問われなければならないだろう。

●参照
『Megaquake III 巨大地震』
『The Next Megaquake 巨大地震』
ロバート・ゲラー『日本人は知らない「地震予知」の正体』
島村英紀『「地震予知」はウソだらけ』
東日本大震災の当日


『Megaquake III 巨大地震』

2013-04-14 22:02:00 | 環境・自然

NHKで放送された『Megaquake III 巨大地震』を観る(2013/4/7, 14)。2回に分かれており、第1回が「次の直下地震はどこか~知られざる活断層の真実~」(>> リンク)、第2回が「揺れが止まらない~"長時間地震動"の衝撃~」(>> リンク)。


番組のポストカード

第1回の活断層については、多くの最近の研究成果が示されている。

東日本大震災(2011年)によってプレート境界のひずみは解消されたが、その際に、東日本が乗る北アメリカプレートは慣性でよけいに東に動き(最大6m)、引っ張られ、新たに多くの活断層が出来た。
・また、その慣性による引っ張りに伴い、マントルが下から地殻を突き上げ、震源地から400km程度の同心円状に大規模な隆起が起きた。
・したがって、今後何十年にもわたり、活断層のずれによる直下型地震が頻発するだろう。
・活断層は数多く存在し、地表から判明したものしかわかっていない。堆積層などが把握を邪魔するわけである。(地表にあるものを活断層、地下にあって地震を引き起こすものを震源断層と呼んで区別している)。
・活断層は綺麗な形ではなく、何本にも枝分かれしている。したがって、地上施設が1本の活断層の真上にあるかどうかを云々することは、あまり意味がある話ではない。
・大阪の上町断層は、物理探査(人工的な地震波を用いる)により、従来考えられていたよりも広範囲に広がっていることが判明した。
・東京の立川断層は、堆積層が厚すぎて(最大5km程度)、どこにあるのか未だはっきりしない。(貝塚爽平『東京の自然史』にも、東京湾の造盆地運動について解説されていた。地盤が下へ動き、その分、上に堆積層が積もっていくわけである。>> リンク

さらには、日本のみならず、中国四川省、台湾、ニュージーランド・クライストチャーチでの地震についても、内陸型だとして説明される。クライストチャーチは、地震が起きるまで、その近くに活断層があるとは知られていなかった。現地の研究者も、まだまだ知られていない活断層があるはずだと発言している。昨日の淡路地震も、阪神淡路大震災(1995年)を引き起こした野島断層そのものではないとされている。

要するに、直下型地震の原因となる活断層の特定は、すべて後追いなのである。これは、研究によって地道にすべてを調べていくことで対処できる類のものではない(いつどこで起きるかわからないため)。大地震が起きた時に被害を最小化するような都市造り、インフラ整備のほうが重要であることは、誰の目にも明らかだろう。

そうしてみれば、原子力発電所をどのように判断するかについても、また明らかである。少なくとも、「国家百年の計」や「国家強靭化計画」を標榜するならば。

第2回は、「3.11」で起きた長時間地震動について、そのメカニズムを説いている。 

確かに、東京丸の内のオフィスにいたわたしにとっても、体験したことがない長い揺れだった。最後は、微妙にゆさゆさと揺れ、乗り物酔いのような気持ちの悪さを味わった。 

実は、巨大な震源域の中で、時間差を置いて次々に大地震が発生したため、それらの地震波が少々の時間差をもって重なり、長くて大きい揺れとなったのだった。その結果、建物にとっても、一度ダメージを受け、その後さらに異なる向きの揺れが襲いかかってきたため、これまでの耐震設計では耐えきれない結果となった。これは建物だけでなく、地盤においても同様だった。

東京や大阪など、分厚い堆積層の上に開発された場所では、揺れはさらに大きなものになったのだという。これは恐怖だ。しかも、大都市には地下街もある。高速道路が横倒れになった阪神淡路大震災の後、東京でも、高速道路や公共の建物での耐震補強が進められていた。あれがなかったなら、と考えると、ぞっとする。 


東京駅地下、「3.11」の夜

●参
『The Next Megaquake 巨大地震』
ロバート・ゲラー『日本人は知らない「地震予知」の正体』
島村英紀『「地震予知」はウソだらけ』
東日本大震災の当日


『カーボン・ラッシュ』

2013-04-07 18:23:42 | 環境・自然

NHK「BS世界のドキュメンタリー」枠で放送された、『カーボン・ラッシュ~CO2排出権ビジネスの実態~』(カナダByron A .Martin Productions / Wide Open Exposure Productions制作、2012年)を観る。(>> リンク

番組は、冒頭に、スコットランドにおけるCO2多量排出企業を横目に見つつ、また、ロンドンにあるヨーロッパ気候取引所(ECX)(一度訪問したことがある)の看板をことさらに示しつつ、環境NGOの人間が、CO2排出源からの直接削減以外は信用ならないと言うところからはじまる。環境経済の手法を端から否定しているわけであり、それは、論理ではなく、知識に裏付けられない感覚に基づいていることがわかる。

おそらく、この手の人にとっては、産業活動やオカネが環境と関連付けられることが我慢ならないのだろう。環境対策のコストを内部化し、経済の流れに乗せるということなど、受け入れられないに違いない。

そして、実際にCO2を削減する事業の実例として挙げられるのは、ブラジルにおけるユーカリ植林、インドにおけるRDF製造、ホンジュラスにおけるアブラヤシによる還元剤製造である。確かに、ユーカリ、パームともに生態系に悪影響を与えかねない植林の樹種であることは以前から知られている。また、RDFも条件が整わない限り無駄な事業になりうることも知られている。しかし、これらが不適切な事業であるということであって、それ以上ではない。こういった事業への参加を、欧州の企業も日本企業も回避することが多いことを、知らないのだろうか?

こんなドキュメンタリーはダメダメ。


『The Next Megaquake 巨大地震』

2013-04-07 11:27:08 | 環境・自然

NHKで放送された『The Next Megaquake 巨大地震』を観る(2013/4/6)。2回に分かれており、1回目は「3.11巨大地震 明らかになる地殻変動」(>> リンク)、2回目は「"大変動期" 最悪のシナリオに備えろ」(>> リンク)。

2011年東日本大震災(「3.11」)が起きた前後の観測結果やその分析により、そのメカニズムが分かってきている。

・プレート境界において、プレート間が一時的に固着した場所であるアスペリティの挙動について。
・それらが連動して動いたことについて。
・海洋底の地震直前の変動について。
・プレート端のひずみに伴う熱の発生について。
・巨大津波の発生メカニズムについて。
・今後の巨大地震連動の可能性について(南海トラフ、東京湾、琉球弧付近など)。
・巨大地震が起きたら数年間に例外なく起きるはずの火山爆発について(富士山など)。

なるほど、研究成果が、地震波の分析、フィールドワーク、古文書の分析、GPSデータの利用、衛星による大気質計測データの利用など、さまざまな手法を通じて紹介されている。わたしも修士までこの分野に身を置いたので、知っている顔もあらわれる。

ここに見られるのは、脅威をあおり、まるで地道かつ誠実な研究が地震予知につながりうることを示そうとする意図である。確かに、これまでにない精緻・詳細なデータ観測網は、いずれ、大きな成果となって結実するのかもしれない。

しかし、阪神・淡路大震災や東日本大震災など予期せぬ大地震によって残された教訓は、地震予知などはるか先に見えるかどうかわからない程度のものだ、ということではなかったか?

重要なのは、「備えよ」と抽象的に叫び、漠然とした期待とともに研究予算を焼け太りさせることではなく、地震や津波や火山噴火といった大災害は「いつ、どこで起きるかわからない」ということを認識し、都市やインフラをそれに適応させることではないのか?

知的には興味深くはあっても、メッセージの示し方について大きな違和感を抱くドキュメンタリーである。次の『Megaquake III』では、活断層と直下型地震(>> リンク)、そして長時間地震動(>> リンク)に、焦点があてられる。注目して観たい。

●参照
ロバート・ゲラー『日本人は知らない「地震予知」の正体』
島村英紀『「地震予知」はウソだらけ』


『カーター大統領の“ソーラーパネル”を追って』 30年以上前の「選ばれなかった道」

2013-03-31 14:36:55 | 環境・自然

NHK「BS世界のドキュメンタリー」枠で放送された、『カーター大統領の“ソーラーパネル”を追って』(スイスAtelier Hemauer / Keller 制作、2011年)を観る。

ジミー・カーター米大統領(任期1977-81年)。1979年に、再生可能エネルギーの推進策を協力に打ち出す。その背景には、同年のイラン革命、第二次石油ショック、ソ連のアフガニスタン侵攻により、中東への石油依存を解消しなければならないという脅威があった。また、やはり1979年にはスリーマイル島事故が起こり、カーター政権は、なおさら、化石燃料依存を問題視した。

そのシンボルとして宣伝したのが、ホワイトハウスの屋根に取り付けた太陽熱温水器だった(もちろん、PVどころか、現在の太陽熱発電とは異なる、初歩的なエネルギー転換装置である)。度重なる国民への呼びかけにもよらず、その息苦しさが国民の人気を失うことになり、大量消費と発展を「強いアメリカ」の象徴として掲げるレーガンに大統領の座を明け渡すこととなった。まさに、原題にあるように、再生可能エネルギー推進は「選ばれなかった道」なのだった。

そして、太陽熱温水器は1986年に撤去され、メーン州の大学の倉庫にひっそりと保管された。番組は、それが、最終的に「選ばれなかった道」の象徴として、スミソニアン博物館に引き取られるところまでを追っている。

この悲劇について、ダニエル・ヤーギン『探求』(>> リンク)がシニカルに表現している。

「温かみのない口調、悲観主義、道義の悪化と犠牲を強調する言葉、恒常的な品不足の予想―――こうしたことが、非常に複雑な遺産を残した。数十年後、ホワイトハウスのとなりの旧大統領府ビルのなかを歩いていた上級エネルギー顧問が、つぶやいた。「この廊下は、いまだにジミー・カーターのカーディガンの亡霊が出没するんだ」」

なんだか、最近の民主党から自民党への政権再交代の悲劇をみるようだ。もちろん、今では、ミニ・レーガンなど登場すべきではない。そういえば、レーガンも「レーガノミクス」を標榜していた(奇妙に重なって見えてしまうのは嫌なことだ)。番組には、太陽熱温水器の新聞記事を書いた記者が登場し、やはりシニカルに言ってのける―――「モーゼの十戒には、11番目に、<アメリカ人は燃料を我慢せず使わなければならない>と書いてあったんだよ」と。

番組では、カーターが、その追い詰められたようなテレビ演説において、省エネ推進を訴えかけるため、「You know we can do it.」と表現している場面がある。そうか、オバマ大統領の「Yes, we can」は、後ろ向きから前向きへの戦略転換だったのか。

再生可能エネルギーに関しては、もちろん、状況が今と30年前とでは大きく異なる。ダニエル・ヤーギン『探求』では、1981年にエクソンが太陽熱ビジネスをコスト性の問題から売却し、他の大手企業も同調したことが書かれている。今は違う。

このようなドキュメンタリーを、スミソニアン博物館の収蔵同様に、「選ばれなかった道」の教訓を示すものとして、どこかで広く上映してほしい。

●参照
ダニエル・ヤーギン『探求』
小野善康『エネルギー転換の経済効果』
吉田文和『グリーン・エコノミー』
『グリーン資本主義』、『グリーン・ニューディール』


榧根勇『地下水と地形の科学』

2013-03-30 22:41:06 | 環境・自然

榧根勇『地下水と地形の科学 水文学入門』(講談社学術文庫、原著1992年)を読む。

シンクタンクで水環境をかじったことはあるが、地下水の世界についてはほとんど無知だった。本書は一般書ではあるが、さまざまな事例をもとに「かゆい」ところを説明しようとしており、実に面白い。少し、蒙を啓かれたような気分である。

読みながらへええと思ったこと。

○地下水の追跡には、昔は塩水や蛍光染料などを用いていたが、1960年代から、同位体を用いるようになっている(岩石や氷河の年齢を特定するのに使うことは、もちろん知っていたが、地下水にも適用されているとは迂闊にも想像しなかった)。たとえば、水素の同位体のひとつである三重水素(トリチウム)。これは通常の水素のなかに一定割合で含まれ、12.4年の半減期で減っていく。それにより、地下水が地下水となってからの時間がわかる。
○川の流速が秒速数十cm~数mであるのに対し、地下水の流速は年速数m~数百mと極めて遅い。例えば、オーストラリアの大鑚井盆地には、年齢100万年前の地下水も存在する。著者曰く、「私たちが食べる彼の地のマトンやビーフにも、100万年前の降水が含まれているかもしれない」(!)。
○そんな長い時間をかけて形成される地下水であるから、地盤によって水質は大きく異なる。硬水、軟水の数値(カルシウムイオン、マグネシウムイオンなど)も驚くほど異なる。日本の水は、世界のなかでは、これといって特徴のない若い軟水である。
○また、同じ理由により、地下水の過剰利用や地下水汚染については慎重に対処しなければならない。
○地下水と河川水とは相互に行き来している。日本では地下水が河川に流入していることが多い(それで、神田川の源流があれほど「ちょろちょろ」であることも納得できる)。

また、具体的な地下水の挙動をみるため、黒部川関東平野の形成史を紹介してくれている。両方とも扇状地だが、氷期前後の海進や海退、地殻変動を経て、単純な扇形にはなっていない。これがまた面白い(もっと図示してほしかったところだが)。

それによると、武蔵野段丘の谷が、削られてできたのではなく、関東ロームが洗い流された結果であるということは、1988年に明らかになったことだという。確かに、貝塚爽平『東京の自然史』(原著1979年)には、確か、そのような記述はなかった。

●参照
貝塚爽平『東京の自然史』
薄っぺらい本、何かありそうに見せているだけタチが悪い


細田衛士『グッズとバッズの経済学』

2013-03-07 07:32:00 | 環境・自然

細田衛士『グッズとバッズの経済学 循環型社会の基本原理(第2版)』(東洋経済新報社、2012年)を読む。

初版は1999年に出版された。その頃、わたしも廃棄物・リサイクルの調査研究にも足を突っ込んでいたこともあり、興味深く読んだ本である。

当時は、容器包装リサイクル法、家電リサイクル法、食品リサイクル法、建設リサイクル法、自動車リサイクル法という個別製品のリサイクルに関する法制度が整備されていた時期であり、それが現実にどのように適合していくのかというプロセスも、その限界も見ることができ、新鮮でもあった。OECDによるEPR(拡大生産者責任)という概念も、受容されてきていた。(ところで、パリのOECDにおけるEPRの会議に黒子として参加した。そのときの厚生省の担当者が、その後、もろもろの経緯があり、瀬戸内の島の町長になっていることを知り、驚いた。)

本書は、その後12年間の変化を踏まえ、改訂されたものである。改めて読んでも、非常に具体的な事例をもとに解説しており、良書である。

グッズとは従来概念の経済取引でプラスの価値が付けられるモノ、バッズとはマイナスの価値(逆有償)となるもの。古紙のように需給の関係でグッズからバッズに移行するモノもあれば、その逆もありうる。

従って、著者は、経済学の中にもマイナス値のバッズを取り入れるべきだとする。また、グッズとは異なるメカニズムで動くバッズフローを制御するためには、そのためのコストを、グッズフローの中に内部化しなければならないと繰り返し説く。そして、コストを内部化しても、バッズフローを完全に市場に任せてはならず、政府や製造者(技術を持つ者)による全体と個別の制御が必要不可欠とする。

至極真っ当な主張である。しかし、それを現実化することはまた別問題である。

また、特にバッズに関して、情報が共有されず、また制約がないため市場メカニズムが機能せず、折角の技術が「顕在技術」とならず、「潜在技術」にとどまることが多いのだとする議論も、興味深いものだった。

いわゆる廃棄物だけではなく、バッズには、例えば大気に排出されるガスも含まれる。視野を広くすれば、現在の環境政策に関するさまざまな言説に、強弁や的外れなものが多く見られることがよくわかる。


『"核のゴミ"はどこへ~検証・使用済み核燃料~』

2013-02-11 09:43:04 | 環境・自然

NHKスペシャル枠で放送された『"核のゴミ"はどこへ~検証・使用済み核燃料~』(2013/2/10)を観る。

核燃料サイクルが実現せず、その中で使用済み核燃料再処理工場(青森県六ケ所村)も、技術的な目途が立たず、操業延期を19回も繰り返している。六ヶ所村に住む菊川慶子さんは、東日本大震災よりずっと前から、「遠隔操作で修理を続けているが、処理対象の高レベル放射性廃棄物は廃液のまま置かれている。地震などで電源が止まることへの対策(予備電源等)はなされていない。ひたすら危険な状況だ」との警告を発していた(2009年3月、>> リンク)。要は、ここが詰まっており、もはや使用済み核燃料を抱えられないため、各々の原発において、自ら出した使用済み核燃料を保管している状況であった。わたしもそれは認識していたが、まさか、各原発の同じ建屋内のプールに、あのような無防備な形で置かれているとは、原発事故まで知らなかった。

番組では、現在までの使用済み核燃料は総量1.7万トンだと紹介している。確かに、2010年3月末現在でも総量約1.6万トンであり、54基から年間約1千トンが排出されるペースであったから、稼働停止を含めたこの2年弱で約1年分が増えたことになる(>> リンク)。残りは総量で6千トン程度であり、場所によってはあと2年間で一杯になる。さあ、どうする。


使用済み核燃料の貯蔵量(2010年3月末現在)(「東京新聞」2010/11/28等より作成)

再処理が仮にできたとして、それによりリサイクルされた核燃料を使う計画だった高速増殖炉も、やはり実用化がストップしている。そして、一方、もう使えない高レベル廃棄物は、どこかに最終処分しなければならない。しかし、その場所はない。

番組では、最終処分を行う自治体決定のプロセスを紹介している。それによれば、手を挙げて文献調査を受け容れただけで20億円、次の地上からの調査で70億円、さらに地下での調査、建設と進む。しかし、少なくとも15箇所(公表されていないが、佐賀、鹿児島、長崎、高知、滋賀、福井、青森といった場所)の一部の者が手を挙げるも、すべて、住民の反対によって潰れるか、先に進んでいない。透明性に乏しく、何万年というタイムスケールでの安全性を担保できない前提では、当然のことだと言える。

このうち紹介された地域は、滋賀県の旧・余呉町(現・長浜市)と、長崎県の対馬。対馬では原発事故によりその危険性に気付かされ、ほぼ断念に至っている。逆に言えば、危険だと思わなかったということだ。ここでは、六ヶ所村への見学が9年間で600人にも及んだという。おそらくはどこでも行われている立地工作である。勿論、納得してもらうためであるから、基本的にポジティブな紹介である。番組に登場する対馬の人も、学校や公民館や病院など立派なハコモノに圧倒されて帰ってきたという。わたしも、つい先日、いつも髪を切ってくれる美容師さんが、自分は六ヶ所村の隣で生まれ育ったが、原発を安全だとする教育が徹底しており、事故により批判の声をはじめて聞いて驚いたという話をしてくれて、その温度差にこちらも驚かされた。

他国では、最終処分地が決まっているのはフィンランドとスウェーデンだけだという。番組で紹介された英国とスイスでも苦慮している。日本と大きく違うのは、乾式キャスクを使っていることである。冷却用の電気を使わず、まずは鋼鉄で封じ込め、40-50年間「中間貯蔵」する方法である。日本がプールで貯蔵するのは、使用済み核燃料を直接最終処分するのではなく、再処理後に最終処分する方針だからである。

リスクばかりがありビジネスメリットを見いだせないにも関わらず、再処理を行う方針は撤回されていない。なぜなら、やめてしまうと、国策会社とはいえ民間会社の日本原燃の経営破綻が必至となり、そのマイナスの波及効果が大きいからだ、とされる。また、六ヶ所村に保管されている使用済み核燃料が「資源」から「廃棄物」へと転じ、約束通り各原発に戻そうとしても、それを受け容れる場所はない。

あまりの難題であり、答えはない。しかし、継続は、中長期的なビジョンを決定的に欠いていることは確かである。

番組では、科学部の記者が、「日本の技術力の低下を懸念する米国との関係」についても口にしていた。これは、日本側と提携するGEやWHへの影響のことばかりではないだろう。再処理で生成されるプルトニウムを、核兵器に転用できるということが、米国にとっての日本の核燃料サイクルの大きな意義であった。勿論、NHKはそこまで言及できない。

●参照(原子力)
鎌田慧『六ヶ所村の記録』
『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ)
『原発ゴミは「負の遺産」―最終処分場のゆくえ3』
使用済み核燃料
『活断層と原発、そして廃炉 アメリカ、ドイツ、日本の選択』
大島堅一『原発のコスト』
小野善康『エネルギー転換の経済効果』
『これでいいのか福島原発事故報道』
山本義隆『福島の原発事故をめぐって』
開沼博『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』
高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』、脱原発テント
前田哲男『フクシマと沖縄』
原科幸彦『環境アセスメントとは何か』
『科学』と『現代思想』の原発特集
石橋克彦『原発震災―破滅を避けるために』
今井一『「原発」国民投票』
『大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話』、新藤兼人『第五福竜丸』
有馬哲夫『原発・正力・CIA』
黒木和雄『原子力戦争』
福島原発の宣伝映画『黎明』、『福島の原子力』
東海第一原発の宣伝映画『原子力発電の夜明け』
『伊方原発 問われる“安全神話”』
長島と祝島
長島と祝島(2) 練塀の島、祝島
長島と祝島(3) 祝島の高台から原発予定地を視る
長島と祝島(4) 長島の山道を歩く
既視感のある暴力 山口県、上関町
眼を向けると待ち構えている写真集 『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』
1996年の祝島の神舞 『いつか 心ひとつに』
纐纈あや『祝の島』


大島堅一『原発のコスト』

2013-02-09 06:50:17 | 環境・自然

大島堅一『原発のコスト ― エネルギー転換への視点』(岩波新書、2011年)を読む。

東日本大震災が起きるまで、原発の「安全神話」に疑いの目を向ける人は多くいたが、「原発は安い」ということを疑う人は極めて少なかった(いない、に近かった)。少なくとも、政府発表の発電コストが、議論の大前提として使われていたのは事実である。わたしもそうであり、その数字を使ったこともある。

2010年の『エネルギー白書』によれば、原子力の発電コストは5-6円/kWh。これはLNG火力の7-8円/kWh、大規模水力の8-13円/kWhより安く、従来型エネルギーよりもコスト上優位だという根拠となっていた。勿論、再生可能エネルギーとなると、風力(大規模)10-14円/kWh、地熱8-22円/kWh、太陽光49円/kWhと、コストだけでは勝負にならないことが明示されたものだった。さらには、再生可能エネルギーは出力変動が激しく使いにくい電源であることも相まって、導入が進まなかったわけである。RPS法(2002年)も、さほどの推進力を持たなかった。

ところが、著者によると、原子力の発電コストは、実態を反映したものではない。大震災直後、著者の発言を目にしたときには驚いた。(この段階で、急遽、『これでいいのか福島原発事故報道』(>> リンク)にも反映した。)

本書では、発電に直接要するコストをより実態的な想定に基づいて計算し、さらに、政策コスト(研究開発、立地対策)を加えている。後者を考慮することは確かに必須だ。核燃料サイクルの研究開発も、用地買収やそのための現地工作も、原発そのものが成り立たない類の活動だからである。

それによると、原発の直接発電コストは8.53円/kWh、政策コストは1.72円/kWh、合計10.25円。このコストは、同様に計算された火力(9.91円/kWh)や一般水力(3.91円/kWh)よりも高い。

原発のコストはそれだけではない。事故が起きたときの想定に加え、核燃料の使用後に生じるバックエンドコストも莫大である。政府試算ではバックエンド事業(六ヶ所村の事業も当然含まれる)の総費用は18兆8000億円。しかし著者によれば、実態を反映するなら、それは数倍に跳ね上がるだろうという。今回、上の発電コストに積み上げる示し方はなされていないが(10.25 円/kWhにさらに上乗せ)、確実な試算をすれば、コスト優位は完全に消えてしまうことだろう。

実際に、不確実なバックエンド費用の評価結果は年々上がり続け、1970年代からの30年間に当初想定の10倍以上となっている(山地憲治『原子力の過去・現在・未来―原子力の復権はあるか―』)。

なお、政府公表値(5.3円/kWh)に占めるバックエンド費用は、これまで15%程度とされてきた。その部分が、膨れ上がるということである。仮に5.3円/kWh×15%×数倍だとすれば、2-3円/kWh程度にはなる。5.3円/kWhと比較すべきは、10.25 円/kWh+2-3円/kWh=12-13円/kWhということであり、従来値の2-3倍だということになる。古賀茂明氏は、最近、11-17円/kWhだと発言しているという。

これまでの常識はなんだったのか。あらためて、大変な脱力感を覚える。

●参照(原子力)
小野善康『エネルギー転換の経済効果』
『活断層と原発、そして廃炉 アメリカ、ドイツ、日本の選択』
『これでいいのか福島原発事故報道』
鎌田慧『六ヶ所村の記録』
『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ)
『原発ゴミは「負の遺産」―最終処分場のゆくえ3』
使用済み核燃料
山本義隆『福島の原発事故をめぐって』
開沼博『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』
高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』、脱原発テント
前田哲男『フクシマと沖縄』
原科幸彦『環境アセスメントとは何か』
『科学』と『現代思想』の原発特集
石橋克彦『原発震災―破滅を避けるために』
今井一『「原発」国民投票』
『大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話』、新藤兼人『第五福竜丸』
有馬哲夫『原発・正力・CIA』
黒木和雄『原子力戦争』
福島原発の宣伝映画『黎明』、『福島の原子力』
東海第一原発の宣伝映画『原子力発電の夜明け』
『伊方原発 問われる“安全神話”』
長島と祝島
長島と祝島(2) 練塀の島、祝島
長島と祝島(3) 祝島の高台から原発予定地を視る
長島と祝島(4) 長島の山道を歩く
既視感のある暴力 山口県、上関町
眼を向けると待ち構えている写真集 『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』
1996年の祝島の神舞 『いつか 心ひとつに』
纐纈あや『祝の島』


小野善康『エネルギー転換の経済効果』

2013-02-06 15:13:27 | 環境・自然

小野善康『エネルギー転換の経済効果』(岩波ブックレット、2013年)を読む。

日本国内での脱原発と同時に再生可能エネルギー導入を進めた場合、経済への効果はどうなるのか。本当に、原子力発電の低コストというメリット(と信じられている)を棄て、採算性の悪い再生可能エネルギーを進めた結果、経済がさらに沈滞し、消費者は電力料金負担に苦しむことになるのか。

本書の試算によれば、そうではなく、逆にプラスの効果を生み出す。なぜなら、再生可能エネルギー産業が興り、それとオカネを介してつながっている消費財分野も潤うからである。ここでのミソは、好況時ならば既存産業を削ってのシフトとなるが、現在のような不況時では、余っている労働力を活かすために、そのようなマイナスの効果は出てこないという点にある。

従って、問題は、産業内・産業間での活動や体制のシフトがスムーズに進むかどうかということになる。

本書の主張には概ね共感できるものだった。テーマも絞り、よくまとまった本である。今後、再生可能エネルギー推進の説明用資料として使うことができる。

現実問題として、無理筋を通すのではなく、社会的に求められる新規産業を伸ばすことの方が良い筈である。

いくつか疑問点(とうに検討した結果かもしれないので、自分用の備忘録)。

廃炉コストの設定が安すぎることはないか(1,100MW級の大型で600~700億円としている)。ドキュメンタリー番組『活断層と原発、そして廃炉 アメリカ、ドイツ、日本の選択』(2013/1/27放送)(>> リンク)では、ドイツでの前例に倣い、1,000MW級で1基あたり1,000億円を要するとしている。
廃炉に要する期間が短くないか(25年間としている)。上記ドキュメンタリーでは、ドイツにおいて、解体・除染が大変な大型設備については50年間の中間貯蔵を選んでいることを紹介している。
廃炉ビジネスの推進をもっと積極的に評価すべきではないか。
○エネルギー分野の生産活動アップによる他分野への波及効果を、実質GDPと実質消費との直接的な関係から設定している。産業連関分析(逆行列計算)を行えば、もっと間接的な波及効果を見込めるのではないか。
○再生可能エネルギー産業による雇用の創出を、既存産業に傷をつけることなく、失業者から充てることを想定している。実際には、知見やノウハウを持った人材がそれを行うのではないか。

●参照
『活断層と原発、そして廃炉 アメリカ、ドイツ、日本の選択』