塩原良和『共に生きる 多民族・多文化社会における対話』(弘文堂、2012年)を読む。編集者のHさんにご紹介いただいた本。
「多民族・多文化社会」を認め標榜したところで、多くの場合には、マジョリティがマイノリティを「認めてやる」形に陥る。このパターナリズム(強い者が弱い者の利益になるよう本人の意思に反して干渉する)は、マイノリティの怒りや、異議や、予期せぬ行動や、弱者からの脱却といった事態に遭遇すると、容易にその本性をあらわす。本書において、さまざまな視点から示されているのは、そのようなマジョリティの欺瞞に他ならない。
かつて(あるいは現在も)、厳しい抑圧を受けたマイノリティは、その疵をトラウマとして抱え、常に、抑圧者がふたたびあらわれるのではないか、また抑圧されるのではないかという恐れを抱く。かたや、罪深いほど無知・無邪気なマジョリティは、なぜそこまで過去に拘るのか理解できない。そして、異議申し立てを行うマイノリティへの攻撃にさえ転じてしまう。多くの場所でみられることである。
著者は、この溝を乗り越える手段のひとつとして<対話>を挙げる。もちろん、マジョリティが自分自身を正当化し、あるいは浄化するための手段であってはならない。当たり前のことに感じられるが、それすらも、可視化をタブーとし、ひとりよがりな<善意>や<歴史>を押し付け、その逆の流れを断固として拒絶するような現状においては、ほとんど成立していない。
良書である。
ところで、著者は、序章において、かつて自分自身が民間のコンサルティング会社で働いたことを告白している。その体験を振り返り、まるで、最新の情報を必死に取り込み、古い情報を書き変え続け、当面の成果だけを追求する世界であったかのように書いている。自虐の衣をまとってはいるが、これは、非常に失礼な見方である。言うまでもないことだが、その世界においても、<知>は蓄積される。このことは、図らずも、<学>における大学というマジョリティ性が相対化されていないことを、示しているのではないか。