稀代の即興演奏家、デレク・ベイリーが亡くなったのは、2005年のクリスマスだった。
破壊へのベクトルを持つ演奏家ではなく、とても論理的で構成主義的な面を感じさせる演奏家だったのだろうと思う。実際、即興演奏に臨む態度としては、練習やある素材を土台とした音楽的なヴォキャブラリーを確実に意識していた。
「私の練習は以上のようなものだが、これらを総合して異端とみる即興演奏家もいるに違いないとおもう。演奏するごとに、そこに生じてきたあらゆるものと唐突な対面をするやり方を好む人もあるだろう。準備されて裃を着た音楽、慎重に備蓄された武器弾薬といった性格をもつものにいっさいうすめられていない、自己完結した唯一無二の経験をこそしたい、というわけである。私もこのような観点に憧れているが、私自身の経験からいうと、そのいきつく先は唯一無二の経験の連続ではなく、複製された経験の連続なのである。論理的な理想をいえば、このような即興演奏を一度して、あとはけっして演奏しないにこしたことはない。そのようなわけで、私はもうひとつの方法、つまり練習をするアプローチのほうを選んでいるともいえる。ソロ・インプロヴィゼーションでえられる夢中状態の連続というのは、私にとって練習に対する褒美のようなものなのだ。」
デレク・ベイリー『インプロヴィゼーション 即興演奏の彼方へ』(工作舎)
このことをはからずも認識させられたのが、2002年に発表されたデレク・ベイリーのソロギター作『Ballads』(TZADIK)だった。あのデレク・ベイリーが、スタンダード・ナンバーを、しかも曲をいとおしむように演奏しているということは、私にとってもかなり衝撃的だった。アンソニー・ブラクストンが『In the Tradition』(Steeple Chase)を発表したときも同じようなセンセーションを持って迎えられたのだろうか。
このたび亡くなってから1年以上が経ち、突然発表されたソロ・ギター作が『Standards』(TZADIK)である。
聴いてみると、雰囲気が『Ballads』と随分違う。『Ballads』は、曲を短く、メロディ中心に、純度の高い形に仕立て上げたものだが、『Standards』は、1曲ずつが長い。そして主旋律は、曲の最後になって現れる。それまでのフリー・インプロヴィゼーションは、ベイリーならではの雅な、脳の色んな箇所のシナプスが活性化されるようなものだ。これはもう、昔の演奏であろうとこれであろうと、泣きたくなるほど嬉しい。
曲それぞれの最後に、宝物のようにではなく、淡々とスタンダード・ナンバーのメロディに移行すること。これは即興演奏におけるヴォキャブラリーに関して、一見その場限りの創造であるものと、素材・手癖とを、公平に見ていたことを示すものだろう。楽器は異なるが、エヴァン・パーカー(サックス)が、50分弱もある演奏の中で、何の衒いもなくコルトレーンの「ナイーマ」に移行したことも思い出す(Orselli-Parker-Salis『TRUE LIVE WALNUTS』)。
『Standards』の曲は、わかるように改名されて変なタイトルになっている。
「When Your Liver Has Gone」は、「When Your Lover Has Gone」。「恋去りしとき」ではなく「肝臓去りしとき」というわけだ(??)。「Frankly My Dear I Don't Give a Damn」は、映画『風とともに去りぬ』でのレット・バトラーの台詞(知らないね、勝手にすればいい)であり、「Gone With The Wind」が引用されている。また「Don't Talk A bout Me」は「About」ではなく、引用されているのは「Please Don't Talk About Me When I'm Gone」。「Nothing New」も「What's New」。これらは『Ballads』でも短く演奏されている。
この演奏にいたる経緯は、2001年のクリスマス(亡くなるちょうど4年前)に、ベイリー夫妻がイクエ・モリとジョン・ゾーンとをホテルの夕食に招待していたときにさかのぼるようだ。そのあとにベイリーが演奏した記録が、この出たばかりの『Standards』であり、実際には2002年になってジョン・ゾーンのもとに届けられた音源が『Ballads』となったわけである。ベイリー自身は、曲へのアプローチを再考してそうしたらしいが、死後、夫人の許可を得て『Ballads』の兄弟作が出たということになる。
とにかく堪らなく素晴らしい演奏である。
さっき聴いていたら、妻は「何だ、また、掻きむしりじじいを聴いているのか」と言いつつも、それらのスタンダード曲のCDをあさってくれた。ビリー・ホリデイとデレク・ベイリーを聴き比べることができるのは幸せだ。しかし、最後の来日の機会が体調不良で叶わず(新宿ピットインで、大友良英、吉沢元治と各日デュオを行う予定だった)、楽しみにしていた私も結局実際の演奏を目の当たりにすることができなかったのはとても残念に思うのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/00/59cbe6100ad2c531d6e3aa5fd393040f.jpg)
デレク・ベイリーの『Ballads』と『Standards』(TZADIK)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/33/67d57e8e081b16686a07d314599111f2.jpg)
デレク・ベイリー『インプロヴィゼーション』(工作舎)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/4a/78a762674715af773ec5f8121ec5b99c.jpg)
エヴァン・パーカーが参加した『TRUE LIVE WALNUTS』(SPLASC(H))
破壊へのベクトルを持つ演奏家ではなく、とても論理的で構成主義的な面を感じさせる演奏家だったのだろうと思う。実際、即興演奏に臨む態度としては、練習やある素材を土台とした音楽的なヴォキャブラリーを確実に意識していた。
「私の練習は以上のようなものだが、これらを総合して異端とみる即興演奏家もいるに違いないとおもう。演奏するごとに、そこに生じてきたあらゆるものと唐突な対面をするやり方を好む人もあるだろう。準備されて裃を着た音楽、慎重に備蓄された武器弾薬といった性格をもつものにいっさいうすめられていない、自己完結した唯一無二の経験をこそしたい、というわけである。私もこのような観点に憧れているが、私自身の経験からいうと、そのいきつく先は唯一無二の経験の連続ではなく、複製された経験の連続なのである。論理的な理想をいえば、このような即興演奏を一度して、あとはけっして演奏しないにこしたことはない。そのようなわけで、私はもうひとつの方法、つまり練習をするアプローチのほうを選んでいるともいえる。ソロ・インプロヴィゼーションでえられる夢中状態の連続というのは、私にとって練習に対する褒美のようなものなのだ。」
デレク・ベイリー『インプロヴィゼーション 即興演奏の彼方へ』(工作舎)
このことをはからずも認識させられたのが、2002年に発表されたデレク・ベイリーのソロギター作『Ballads』(TZADIK)だった。あのデレク・ベイリーが、スタンダード・ナンバーを、しかも曲をいとおしむように演奏しているということは、私にとってもかなり衝撃的だった。アンソニー・ブラクストンが『In the Tradition』(Steeple Chase)を発表したときも同じようなセンセーションを持って迎えられたのだろうか。
このたび亡くなってから1年以上が経ち、突然発表されたソロ・ギター作が『Standards』(TZADIK)である。
聴いてみると、雰囲気が『Ballads』と随分違う。『Ballads』は、曲を短く、メロディ中心に、純度の高い形に仕立て上げたものだが、『Standards』は、1曲ずつが長い。そして主旋律は、曲の最後になって現れる。それまでのフリー・インプロヴィゼーションは、ベイリーならではの雅な、脳の色んな箇所のシナプスが活性化されるようなものだ。これはもう、昔の演奏であろうとこれであろうと、泣きたくなるほど嬉しい。
曲それぞれの最後に、宝物のようにではなく、淡々とスタンダード・ナンバーのメロディに移行すること。これは即興演奏におけるヴォキャブラリーに関して、一見その場限りの創造であるものと、素材・手癖とを、公平に見ていたことを示すものだろう。楽器は異なるが、エヴァン・パーカー(サックス)が、50分弱もある演奏の中で、何の衒いもなくコルトレーンの「ナイーマ」に移行したことも思い出す(Orselli-Parker-Salis『TRUE LIVE WALNUTS』)。
『Standards』の曲は、わかるように改名されて変なタイトルになっている。
「When Your Liver Has Gone」は、「When Your Lover Has Gone」。「恋去りしとき」ではなく「肝臓去りしとき」というわけだ(??)。「Frankly My Dear I Don't Give a Damn」は、映画『風とともに去りぬ』でのレット・バトラーの台詞(知らないね、勝手にすればいい)であり、「Gone With The Wind」が引用されている。また「Don't Talk A bout Me」は「About」ではなく、引用されているのは「Please Don't Talk About Me When I'm Gone」。「Nothing New」も「What's New」。これらは『Ballads』でも短く演奏されている。
この演奏にいたる経緯は、2001年のクリスマス(亡くなるちょうど4年前)に、ベイリー夫妻がイクエ・モリとジョン・ゾーンとをホテルの夕食に招待していたときにさかのぼるようだ。そのあとにベイリーが演奏した記録が、この出たばかりの『Standards』であり、実際には2002年になってジョン・ゾーンのもとに届けられた音源が『Ballads』となったわけである。ベイリー自身は、曲へのアプローチを再考してそうしたらしいが、死後、夫人の許可を得て『Ballads』の兄弟作が出たということになる。
とにかく堪らなく素晴らしい演奏である。
さっき聴いていたら、妻は「何だ、また、掻きむしりじじいを聴いているのか」と言いつつも、それらのスタンダード曲のCDをあさってくれた。ビリー・ホリデイとデレク・ベイリーを聴き比べることができるのは幸せだ。しかし、最後の来日の機会が体調不良で叶わず(新宿ピットインで、大友良英、吉沢元治と各日デュオを行う予定だった)、楽しみにしていた私も結局実際の演奏を目の当たりにすることができなかったのはとても残念に思うのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/00/59cbe6100ad2c531d6e3aa5fd393040f.jpg)
デレク・ベイリーの『Ballads』と『Standards』(TZADIK)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/33/67d57e8e081b16686a07d314599111f2.jpg)
デレク・ベイリー『インプロヴィゼーション』(工作舎)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/4a/78a762674715af773ec5f8121ec5b99c.jpg)
エヴァン・パーカーが参加した『TRUE LIVE WALNUTS』(SPLASC(H))
こちらこそ、もう随分と前からサイトを拝見しています。インプロはやめられないというか、聴けば聴くほど面白いですね。デレク・ベイリーは録音が多く、はなから全部つきあうなど考えていませんが、持っているものはどれも愛着があります。