GWのお供に:藤野裕子『民衆暴力 一揆・暴動・虐殺の日本近代』

2022-05-01 09:00:00 | 本関係
昨日の『生きて帰ってきた男』に続き、GWお勧め書籍第二段。


本書は、題名の通り日本近代(明治・昭和)の暴動や虐殺を扱っている。特徴的なのは、江戸時代(近世)の一揆の構造を中世との変容から立体的に説き始め、それが江戸の世においてどのような変質を見せたか、そして明治にどう接続したのか・しなかったのかを考察しており、単なる時代史を越えた視野を持つきっかけを提供してくれる。


これにより、たとえば近世的「世直し」の感覚がいわゆる昭和維新にもかなり影響していそうだと思うようになった。それはたとえば五・一五事件と首謀者たちの「捨て石」感覚(戦略的なクーデターではない)、あるいは二・二六事件の将校たちの天皇に対する期待と失望(仁政イデオロギーとそことの乖離)などである。(近世的観念が色濃く残る)農村出身者を中心にした素朴な青年たちの発想と、それを近代的な国家改造に結びつけようとしたイデオローグたちの同床異夢が、それら事件のキメラ的性質と掴みにくさの大きな要因の一つとなっているのだろう、という具合に。


あるいは秩父事件で見られた、ムラ共同体的な契約観念(相手も自身のコミュニティの一部であるため、契約を額面通り履行することで相手が行き倒れになるようなことはしない)から近代的な契約観念への変質とそれによる不満の鬱積についての指摘も興味深い。そこから中世に視野を広げれば、桜井英二『破産者たちの中世』であったり、国質・郷質のような一種異様に思える取り立て方法の理解にもつながるのではないだろうか。


ちなみに言っておくなら、互助的共同体というのは大なり小なりこういった「契約だけで見ると不合理」な面を様々持っているのであり、それは相互の関係性と信頼の履歴(もう一つ言うと人的流動性の低さ)により成り立っている。ゆえにこそ、現代社会が行き詰まったからといって、じゃあ昔ながらの共同体に戻ればよいというのは短絡的で浅はかな発想なのである。


もう一つ特徴的なのは、運動や事件に参加した人々の様々な論理や背景に分け入って記述することで、それを一つのベクトルを持ったものとして単純化するの愚を避けるだけでなく、その攻撃対象や正当化の理屈について記述することにより、「民衆運動=反権力=善」的な図式的理解からも距離を取っている点を強調したい(このような評価の仕方や変化の過程については、成田龍一『近現代日本史と歴史学』など読むと多少俯瞰的に理解しやすくなるだろう)。


以上のように、近代の民衆暴力を多角的に分析・評価する視点を提供してくれる優れた著作であり、こういった論考に触れることは、他の領域(たとえば法哲学や法社会学)についても得るものが大きい。ぜひ時間がある節に一読をお勧めしたい。

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