前回の教育格差を扱った記事に続くものとしていくつか候補があったが、「過去を学ぶことで現在をよりよく知る」というテーマの記事を最近いくつか書いていたので、今回は未来に関する話題として新反動主義や加速主義、およびその由来について書いた『ニック・ランドと新反動主義』を紹介したい。
新反動主義というのは、ごく簡単に言えば「反近代主義」である。すなわち、資本主義・国民国家・民主主義というトリアーデ、あるいはその元になっている理性重視や啓蒙といったものに否を突き付ける思想だ(だから「反動」と名付けられている)。そしてこれを踏まえ、例えば理性崇拝や平等主義、普遍主義に否を突き付け、(サイバー)リバタリアン的な社会・生活を称揚するものと定義づけることができる(これがポリコレに反発する没落中間層やアンダークラスのルサンチマンと結びつきうる部分なのだが、それは別の機会に述べる)。なので、人によっては、かつてのヒッピー文化や「カリフォルニアン・イデオロギー」という言葉を用いた方がピンときやすいかもしれない(異なる部分も様々あるが、社会の軛から免れることやサイバースペースへの期待感は近似していると言っていいだろう)。
なお、本書では加速主義という思想も紹介されている。それはどのようなものかと言うと、新反動主義的世界を達成するために、現在の資本主義社会を革命で潰すとかオルタナティブを志向する(その典型がかつては共産主義だった)のではなく、むしろ資本主義の成長を促進し、その要素を極限まで突き詰めることで、そのシステムが巨大化しすぎた己の重さに耐えきれず自壊するよう仕向けよう、とする発想である(これは資本主義が発達してグローバル経済が進展した結果、国民国家というものが溶解に向っている現状を踏まえれば、荒唐無稽な発想とは言い難いだろう。これに対する反発がトランプ現象、ブレグジット、フランスFNの躍進、カタルーニャ独立運動だったりするわけである。なお、加速主義にはシンギュラリティや身体の機械化みたいな話も出てくるので、わかりにくい人は「攻殻機動隊」の世界を連想するとあながち外れてはいないだろう)。
ただ、これだけですでにお気づきの人もいると思うが、一言で「近代」といってもそこには様々な相反する要素が内包されてもいるわけで、そのどこに強く反発するかにはグラデーション、つまり新反動主義自体の多様性がある(ちなみに言っておくと、近代的なるものの中からナチスドイツが生まれ、それがフランクフルト学派を始めとして深刻な自省を促したことは有名であることからもわかるように、近代の病理とその指摘はむしろこれまでしばしば繰り返されてきたのであった)。またはっきり言って、この思想自体にいささかイメージ先行の幼児性(まあ「暗黒啓蒙=Dark Enlightment」といった言葉自体がもう中二病全開って感じなんだがw)に基づいているというのが正直な感想である。
ゆえに、この本を読む際に注意すべき点を二つ挙げておきたい。一つは、専門的な知識でなくてよいので、「近代」そして「近代化」とは何か?それはどのようなものとして語られることが多いか?といったことは多少知っておいた方がよいこと。でないと、本書で語られる新反動主義が何に対するアンチテーゼなのか理解できないし、ゆえにその不満の源泉や立論・着眼点のおかしさもわかりにくいので、中二病的なことを喚ているだけの論だと思われて読んでもピンとこないのではないだろうか。
もう一つは、この思想そのものの深みにそこまで期待しない方がよいということだ。著者もしばしば疑問を呈したりしてはいるが、新反動主義は「反近代」の側面が強すぎて、極度に物事を単純化していたり、それに対する代替案(?)が短絡的過ぎたりする嫌いがある。要するに、新反動主義という斬新な発想に触れられると期待して本書に触れると反理性を強調する余りの直感主義やオカルティズムなどに辟易させられる可能性が高いので、誤解を恐れずに言えば陰謀論や偽史の分析をするように、「どうしてそういう発想が出てきたのか?」、「どうしてそういう発想が一定の支持を得ているのか」という視点で見る方が実りが多いと思われる。
というわけで、『ニック・ランドと新反動主義』及びそこで紹介される新反動主義や加速主義、およびその問題点について簡単に述べたが、このテーマは私がしばしば書いているVRの話や毒書会で取り上げる予定のシュンペーターとも関係してくる。次回はそれに言及することとしたい。
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