もともとはPCゲームのfateをプレイしたことで興味を持った作品。「一度お産をするくらいなら、三度でも戦場に出るほうがまし」(87p)といった言い回しや女性の鋭い心理描写が目を引くが、最も印象に残ったのは、子殺しの不可解さである。解説によれば、この部分はエウリピデスの独創らしいので、以下この問題について論じてみたい。なお、引用文やページ数は、全てちくま文庫版(中村善也訳)による。
なるほど夫の新しい妻やその舅を殺すのはわかるが(特に後者は自分達を追い出そうとしていたのだから)、自分の子供達を殺す必然性はないように思われる。
メデイアが子供を殺す理由としては、復讐と憐れみの二つが考えられる。前者について言うと、いくら自分の子でも、それが憎むべき夫のものであれば「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とばかりに憎悪の対象となるというのは理解できる(※)。例えば最初の方で、彼女は子供達に「おお、呪わしい子供らよ、呪うべき身の母の子よ、滅んで果てよ、父親と。家もろともに失せて去れ」(79p)とまで言っており、その感情に任せて子供を殺すのであれば、別に不思議なところはない(直後の乳母の発言と並んで子殺しの伏線になっている)。
しかしながら、メデイアは明らかに憎悪だけで子供を殺してはいない。そのことは、「ぐずぐずしていて、あれたちを、もっとひどい人たちの、手にかからせるようなことはなりません。あの子たち、どのみち命はないのです。そうというなら、生みの母の手にかかるのが、せめてもの仕合せと言えましょう」(133,134p)という彼女自身の言葉に明らかである。もちろん、これをコロス達(=仕えている者達)に対するポーズ(子殺しの正当化)とする穿った見方もできなくはないが、夫イアソンの前で(これから殺すことになる)子供の事を思って涙ぐむのは明らかに不自然かつ危険な行為であって(実際イアソンに指摘されている)、謀り事に長けたメデイアの人物描写からしても子供に対する憐れみの気持ちを演技と見なすのは妥当ではない。
要するに、メデイアは確かに子供への憐れみの気持ちを持っていたと言える。しかしそうなると、なぜ子供を殺さなければならないのかという問題が浮上するのだ。確かに、子供をそのまま置いていけば彼らは無残な殺され方をするかもしれない。仮に生き延びれたとしても、死んだ彼らを悼むイアソンでさえ他人が彼らを追放するのを容認したのだから、その運命は悲惨なものとなる可能性は高い。
しかしそれでも、殺す理由にはならないのだ。メデイアはアテナイ王アイゲウスから保護の約束を取り付けたことで復讐を実行に移す決心をしたのだが、子供たちを伴ってアテナイに移ろうと考えなかったのは不思議である。メデイアは子供を手にかけた理由をイアソンに聞かれて「あなたを苦しめようために」(142p)と言っているが、それなら子供を連れて遠くに行くことも似たような効果があるのではないか(※2)?
以上の理由により、本作品における子殺しには必然性が感じられない。もっと言えば、子殺しそのもの、あるいはそれに伴う悲劇性が目的だったとしか考えられず、作品の構成としては稚拙という印象が拭えない。もちろん、最大限に譲歩して、自分に殺される運命に涙しつつそれでも復讐のために殺すような、そういう不合理性こそ人間悲劇の根源なのだ、というもの言いも可能だ。しかしそれを読者に納得させるには、この『メデイア』の描写は弱すぎるというのが正直な感想である。
ゆえに、上演当初の第三賞(最下位)という評価は不等にしても、ソフォクレスの『オイディプス王』などと比べれば見劣りすると言えるだろう。
※
余談だが、昔見た映画に、愛人を作った夫を殺した後でお腹の中の赤ん坊を包丁で刺して殺す、というものがあった。
※2
あるいは、子供を連れて他の都市に行くこと自体に何らかの不都合があったのだろうか?あるいは子連れでアイゲウスの元には行けなかったのだろうか?そのあたりは古代ギリシャ社会に詳しくないのでよくわからない。
なるほど夫の新しい妻やその舅を殺すのはわかるが(特に後者は自分達を追い出そうとしていたのだから)、自分の子供達を殺す必然性はないように思われる。
メデイアが子供を殺す理由としては、復讐と憐れみの二つが考えられる。前者について言うと、いくら自分の子でも、それが憎むべき夫のものであれば「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とばかりに憎悪の対象となるというのは理解できる(※)。例えば最初の方で、彼女は子供達に「おお、呪わしい子供らよ、呪うべき身の母の子よ、滅んで果てよ、父親と。家もろともに失せて去れ」(79p)とまで言っており、その感情に任せて子供を殺すのであれば、別に不思議なところはない(直後の乳母の発言と並んで子殺しの伏線になっている)。
しかしながら、メデイアは明らかに憎悪だけで子供を殺してはいない。そのことは、「ぐずぐずしていて、あれたちを、もっとひどい人たちの、手にかからせるようなことはなりません。あの子たち、どのみち命はないのです。そうというなら、生みの母の手にかかるのが、せめてもの仕合せと言えましょう」(133,134p)という彼女自身の言葉に明らかである。もちろん、これをコロス達(=仕えている者達)に対するポーズ(子殺しの正当化)とする穿った見方もできなくはないが、夫イアソンの前で(これから殺すことになる)子供の事を思って涙ぐむのは明らかに不自然かつ危険な行為であって(実際イアソンに指摘されている)、謀り事に長けたメデイアの人物描写からしても子供に対する憐れみの気持ちを演技と見なすのは妥当ではない。
要するに、メデイアは確かに子供への憐れみの気持ちを持っていたと言える。しかしそうなると、なぜ子供を殺さなければならないのかという問題が浮上するのだ。確かに、子供をそのまま置いていけば彼らは無残な殺され方をするかもしれない。仮に生き延びれたとしても、死んだ彼らを悼むイアソンでさえ他人が彼らを追放するのを容認したのだから、その運命は悲惨なものとなる可能性は高い。
しかしそれでも、殺す理由にはならないのだ。メデイアはアテナイ王アイゲウスから保護の約束を取り付けたことで復讐を実行に移す決心をしたのだが、子供たちを伴ってアテナイに移ろうと考えなかったのは不思議である。メデイアは子供を手にかけた理由をイアソンに聞かれて「あなたを苦しめようために」(142p)と言っているが、それなら子供を連れて遠くに行くことも似たような効果があるのではないか(※2)?
以上の理由により、本作品における子殺しには必然性が感じられない。もっと言えば、子殺しそのもの、あるいはそれに伴う悲劇性が目的だったとしか考えられず、作品の構成としては稚拙という印象が拭えない。もちろん、最大限に譲歩して、自分に殺される運命に涙しつつそれでも復讐のために殺すような、そういう不合理性こそ人間悲劇の根源なのだ、というもの言いも可能だ。しかしそれを読者に納得させるには、この『メデイア』の描写は弱すぎるというのが正直な感想である。
ゆえに、上演当初の第三賞(最下位)という評価は不等にしても、ソフォクレスの『オイディプス王』などと比べれば見劣りすると言えるだろう。
※
余談だが、昔見た映画に、愛人を作った夫を殺した後でお腹の中の赤ん坊を包丁で刺して殺す、というものがあった。
※2
あるいは、子供を連れて他の都市に行くこと自体に何らかの不都合があったのだろうか?あるいは子連れでアイゲウスの元には行けなかったのだろうか?そのあたりは古代ギリシャ社会に詳しくないのでよくわからない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます