愛のむきだし
2008年/日本
猥褻という目眩まし
総合
80点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
園子温監督の『愛のむきだし』は映像の‘猥褻さ’とは裏腹に物語自体は極めて真っ当なものである。主人公のユウの父親で神父のテツが息子の盗撮を赦せなかった理由は、盗撮という行為が被害者が気がつかない限り‘実害’のないものであり、しかし盗撮したことを知ることを隠蔽することは共犯になる可能性がでてくるが、‘懺悔’したことを警察に届けるわけにはいかない神父のテツはユウの告白を聞きたくないために息子を変態扱いして殴るのである。
しかし父親に殴られることを目的に盗撮しているユウは変態ではない。亡くなった母親の面影を持つヨーコに勃起してしまう彼の性欲はごく自然のものである。本当は男性である‘サソリ’を好きになるヨーコのレズビアンも‘勘違い’である。寧ろ問題となるのはユウやヨーコと同じように家族の愛に恵まれなかったコイケが新興宗教という形にしてでも築こうとする‘理想の家族形態’に対する異常な執着心である。
あらゆる手段を駆使してユウやヨーコたちに押し付けるコイケの‘理想郷’に巻き込まれながらも、心から沸き起こる愛を手がかりにユウとヨーコは‘変態’を経て、自分たちを縛ろうとする‘家族’を始めとする教団や病院や警察などのあらゆる種類の団体から逃れようと試みる。
それ故にこの作品のラストは余りにも呆気なかった。呆気なさすぎて私には監督がテーマを掘り下げることの煩わしさを避けて、エンターテイメントに逃げたような印象を持った。しばしばこの作品の上映時間の長さが問題になるが、テーマを追求するためには4時間では短すぎたのではないのかと思う。例えばフランシス・フォード・コッポラ監督の『地獄の黙示録』(1979年)のようにカットした部分を加えて6時間くらいの再編集完全版にすればもっと分かりやすくなるのではないのかと思うが、発売されたDVDを見る限り園子温監督にはそこまでする気はないようである。
阿久根市長「ブログに出す」 県立校長に要求しつつ発言(朝日新聞) - goo ニュース
だんだんと(元々だったのかもしれないが)鹿児島県阿久根市の竹原信一市長の
言動がブレてきている。竹原市長が出場禁止を取り消すよう求めたことに対して
県立鶴翔高校の校長は「職員会議で決めたことは変更できず、応じられない」と
答えた。可笑しいのはここからで竹原市長は「ブログに記載する。報道各社にも
伝える」などと話したらしい。まず何も不正なことをしていない校長に関してブログ
に記載することでどのような効果を狙っているのか意味が分からない上に、自身の
ことに関しては黙秘を続けておきながら、他人の事では報道機関を利用するという
ご都合主義に関しても是非ブログに記載して、報道各社にも伝えて欲しいものだ。