青春の殺人者
1976年/日本
‘故郷’を放棄する人々
総合 100点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
(『男の顔は履歴書』からの続き。)何の予備知識もなくこの『青春の殺人者』を観ると、終始グダグダしている斉木順という若者を見るだけで、どうしてこれが傑作と謳われているのかよく分からないであろう。時代を遡る必要がある。
1960年代後半から70年代にかけて‘アメリカン・ニューシネマ(New Hollywood)’というムーブメントが起こった。簡単に説明すると若者たちが彼らの親の世代に反旗を翻すのであるが、結局‘体制’の前になす術がないという挫折の物語である。代表的な作品として『俺たちに明日はない』(アーサー・ペン監督 1967年)、『イージー・ライダー』(デニス・ホッパー監督 1969年)、『ファイブ・イージー・ピーセス』(ボブ・ラフェルソン監督 1970年)、『スケアクロウ』(ジェリー・シャッツバーグ監督 1973年)、『タクシードライバー』(マーティン・スコセッシ監督 1976年)などがある。
そのようなアメリカン・ニューシネマの作品群とこの『青春の殺人者』を比較してみるとその違いがはっきりする。斉木順はいきなり自分の両親を殺してしまう。つまり彼はいきなり‘体制’を倒してしまうのである。しかし驚くべきことに彼は‘勝利者’にはならない。斉木順にとって両親の殺害は重大な出来事であっても、警察はもっと大きな出来事(ここでは成田闘争)で忙しく、斉木のことなどかまっていられない。だからといって斉木は自殺することもできずに徒に時間を浪費するだけである。いままで若者たちは‘体制’に阻まれて‘敗者’になっているものと私たちは思っていたのだが、実は生きる支えになっていた‘体制’(=親から与えられたスナックを経営している斉木)を破壊してしまうと若者は‘敗者’にならざるを得ないことをこの作品は明らかにした。しかし自らハードルを上げてしまった長谷川和彦監督のその後の寡作ぶりを見ると、自身の作品に首を絞められているように感じる。
『歌女おぼえ書』では庄太郎がお歌を追っかけてきたが、『男の顔は履歴書』になると雨宮医師は恋人の倉本マキに求婚されたが拒絶したために、マキは雨宮の友人の崔と結婚してしまう。そして『青春の殺人者』では斉木順はいつも恋人の常世田ケイ子と一緒にいるが、斉木は何とかしてケイ子と別れようとしている。まるでケイ子と別れるために両親を殺したような感じもするのだが、ケイ子はそのことを余り意に介さず、むしろ死体の遺棄を手伝ったりする。結局斉木はケイ子のことが心の底から信用できないのである。そしてスナックの火災のどさくさに紛れてようやくトラックの荷台に乗って逃げることができる。
雨宮医師と斉木順はまるで‘デラシネ’になることが生きる証のようで、そうなると庄太郎のお歌に対する平手打ちは‘デラシネ’であることを諦めろという覚悟を与える意味合いがあったのだろうか?
男の顔は履歴書
1966年/日本
‘故郷’を失った人々
総合 100点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
アテネ・フランセ文化センターにおける『To each his own Japanese Cinema 世界のなかの日本映画』でクリス・フジワラ(国際批評家連盟のWebマガジン「Undercurrent」編集長)が選んだ『歌女おぼえ書』(清水宏監督 1941年)『男の顔は履歴書』(加藤泰監督 1966年)『青春の殺人者』(長谷川和彦監督 1976年)の三作品が上映された。まずは彼自身のコメントを引用してみたい。
「私の主要な関心は映画作家の発見と再評価、そして彼らの作品スタイルと美学について論じることにあります。したがって、(その莫大な本数と多様性はさておき)日本映画と他の国の映画を比較することに特別な興味はありません。もちろん、日本映画の製作と配給には、あるテーマ、ある物語、ある映像といったその国特有の事情があり、それらは十分に研究に値します。しかし私は、映画制作において個々の映画作家が日本人だから行うこと、あるいはおそらくそうだからしないことに、より関心をもっています。」
クリス・フジワラ氏はこの三作品を選ぶにあたって共通性など考慮せずに選んだそうであるが、この何のつながりもない三作品でも通して観賞してみると共通項が見えてくるから不思議なものである。
『歌女おぼえ書』の最大の謎は、明治34年、どこにも行く当てがなかった旅役者の女‘お歌’が、お世話になった茶問屋の主人である平松庄輔が急逝して店の借金が残り休業に追い込まれた後に、チャンスを生かして茶問屋を再興させた後、黙って旅役者の仕事に戻って半年経ってから、茶問屋の跡継ぎである平松庄太郎がお歌を探し出した時に、戻って来るように懇願した庄太郎に「かたぎの暮らしは窮屈です。旅役者なら好きなときに起きて好きなときに寝れるし、タバコも吸える」とわざと嘘をついたお歌に放った庄太郎の平手打ちである。この平手打ちの演出には明確な答えはないのかもしれないが、忘れてはならないことは‘デラシネ’なのはお歌だけではないということである。平松庄輔が自ら語っているように彼も他所からやって来て茶問屋を興している‘デラシネ’で、平松庄太郎も東京の大学へ行った‘デラシネ’なのである。身分は違えども‘デラシネ’という共通項で理解し合えると庄太郎は確信していたはずである。
『男の顔は履歴書』は作品冒頭で平和の願いを込めて作ったという断りをいれておいたうえで‘三国人’たちを大暴れさせる演出で日本人のナショナリズムを大いに刺激する。しかしこのブラックマーケットを巡る日本人 vs.‘三国人’の構図はラストで主人公の雨宮医師が一人で‘三国人’たちを片付けてしまうことで崩れてしまう。つまり人種の対立だったものを雨宮医師の個人的な対立に変えてしまうのである。この作品では人種の垣根を越える、あるいは‘人種’という概念を消失させる様々な試みがなされている。
このレビューは『青春の殺人者』で佳境に入る。
【1都4県週刊知事】東京 石原慎太郎知事 予想外の“余震”続く(産経新聞) - goo ニュース
中井洽防災担当相の「警報を出しても意味がないということになると、次回の警報が
信用されなくなる」「悠々と(マラソンを)やっていた」などとコメントしたことに対して、
石原慎太郎東京都知事は「大臣がああいうバカなことを言わない方がいい!」と
発言したそうである。その理由として「小笠原の情報や東京湾の地形を踏まえて
やっており気仙沼とは違う。むしろ気象庁の情報が甘かった。中井某(なにがし)
大臣が反省するのはそっち」と述べている。確かに気象庁の情報が甘かったことは
間違いないが、では石原が入手している小笠原の情報や東京湾の地形を踏まえた
上での判断というものは誰によってなされているのか? 気象庁以上に津波情報に
関して正確な情報を入手し、的確な判断ができる機関があるのならば石原はその
情報源を首長として公開しなければならない立場にあるはずなのだ。結局石原は
人の命よりも経済損失を避けたかっただけでしょう