板尾創路の脱獄王
2009年/日本
最後のオチの正確な解釈
総合
80点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
映画監督としての松本人志があえて顰蹙を買ってでもギャグを犠牲にして映像の可能性に拘っているのとは対照的に、映画監督としての板尾創路はあくまでもギャグに拘っているように見えた。
全体的に演出が雑な印象を受けてしまうことは否めないが、それを補うだけの、決してヒューマニズムに落とさなかった最後のオチが効いている。この作品を観たほとんどの人たちが誤解しているようなので、ここではっきりさせておきたい。
最後のオチは主人公の鈴木雅之が迎えに行った父親を取り違えると解釈されているようであるが、あれだけの苦しい思いをしたにもかかわらず、鈴木が父親を間違えることはありえない。父親の胸には富士の刺青が彫られており、鈴木は絶対に確認したはずだからであり、実際に残された男の胸には富士の刺青があり、鈴木に連れて行かれた男の胸には富士の刺青がないカットが挿入されている。もちろんこれは演出ミスではない。予告編で鈴木が女性の服を脱がすシーンがあったが、本編ではカットされているように、この作品には女性がほとんど出てこない。つまりこの作品の最後のオチは主人公の鈴木雅之が自分の実の父親を平気で置き去りにするような‘ハード’な同性愛者であったということなのである。
長官銃撃はオウムのテロ 警視庁、時効事件で異例の断定(朝日新聞) - goo ニュース
青木五郎公安部長が「事件はオウム真理教のグループが(松本智津夫)教祖
(死刑囚)の意思の下、組織的・計画的に敢行したテロだった」との見解を発表した
ことは二つの問題が生じてしまう。このようにオウムのテロと断定してしまうことで
オウム信者で警視庁の元巡査長だった男が犯人ではないということを暗に示す
ことになり“身内の犯行”ではないというアピールをしたことになる。さらにもう一人
犯人ではないかと疑われている中村泰(やすし)の犯人の可能性を完全に否定
することになる。もう面倒だからこれ以上捜査はしないということで、事実上捜査の
放棄である。警視庁にとって都合にいいことばかりではないだろうか