MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

夏目家の舌禍の傾向について

2018-04-25 00:22:43 | 美術

 木島櫻谷の『寒月』が大正元年の第6回の文展で日本画の部で最高賞を獲ったにも関わらず、当時朝日新聞の記者だった夏目漱石が10月24日付批評欄「文展と芸術」で「木島櫻谷氏は去年沢山の鹿を並べて二等賞を取った人である。あの鹿は色といい眼付といい、今思い出しても気持ち悪くなる鹿である。今年の『寒月』も不愉快な点に於いては決してあの鹿に劣るまいと思う。屏風に月と竹と夫から狐だかなんだかの動物が一匹いる。其月は寒いでしょうと云っている。竹は夜でしょうと云っている。所が動物はいえ昼間ですと答えている。兎に角屏風にするよりも写真屋の背景にした方が適当な絵である」と酷評したのは有名な話で、2018年3月11日に放送されたNHKの「日曜美術館 孤高の画家 木島櫻谷」で漱石の孫の夏目房之介が「ひどい言われようなので大変申し訳無いなと。一言ここで謝っておかなければならないかなという気がするくらい、ひどい書かれよう」と語っていた。

 しかしそう語る夏目房之介でさえ同じ過ちを犯しているのである。「『あしたのジョー』と梶原一騎の奇跡」(斎藤貴男著 朝日文庫 2016.12.30)から引用する

「漫画評論家を兼任する漫画家の夏目房之介は、『消えた魔球 - 熱血スポーツ漫画はいかにして燃えつきたか』の中で、永島(慎二)が゛青春漫画の巨匠゛の異名をとり、『漫画家残酷物語』『フーテン』などの一連の作品で一種神格化された存在であったことを紹介した後、自らも絵を描く人らしく、こう指摘している。
〈川崎のぼるは貸本劇画的なGペン的誇張を、梶原劇画の事大主義と重ねあわせて極端なシュワルツネッガー的肉体の線を生み出して、成功した。ちばてつやは粘りに粘るこだわりの中で、梶原劇画の骨格にちばドラマの肉づけをして名作をものにした。
 いずれも梶原原作との格闘を通して自分の新しい絵のスタイルを生み出している。
 しかし水島の『柔道一直線』における線は、文字どおり一直線でほとんど変化がない。言ってしまえば、やる気がないんじゃないかとも思える入れ込みのない線のまんまなのである〉
〈『柔道一直線』の画を永島慎二が描いていたと言うと、「えーっ」と言う同世代人は多い。無理もないので、こうやって(永島の他の作品の絵を)並べてみるとちょっと同じ描き手によるものとは思えないかもしれない。
 『柔道一直線』での永島は、必死に少年漫画のパターン化された描き方をなぞることで、ともするとゆれ動きそうな自分の線をおさえようとしていたように見える。
 永島青春漫画の線には、重さがあまりない。強いこだわりはあるが、重力的ではないのだ。だから、ふわふわと浮き漂うような当時の青年の心象風景や都市の郷愁を描けたのである。(中略)青春漫画を描くときの永島の線はペンの先にこだわりがあって読む者の視線の滞在時間を長くするが、『柔道一直線』の線にはそれがない。そのかわりに無機的な流線でスベリを良くしているようなところがある。重さもないから、余計柔道のワザもうわすべりしているように見える〉」(p.61-62)

 この意見に対する永島慎二本人の発言を引用してみる。

「夏目さんという人の文章は僕も読みましたが、あれは誤解です。僕の線をわかってくれていない。やる気がないとか、手を抜いたなんてとんでもない話です。僕は内面で何があっても、始めてしまえばギンギンになって描きます。実際、途中まではノリにノッて、入れ込んで描いていました」(p.65)

 つまり漱石に限らず、夏目家は「絵」に関して舌禍をしがちなのである。


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