久しぶりに安部公房の『壁』を読もうとしたら、新潮文庫で改版が出版されていることに気がつき、フォントなどを大きくしたくらいだと思っていたら、目次から変わっていた。まずは旧版の目次を書き出してみる。
序(石川 淳)
壁
S・カルマ氏の犯罪
赤 い 繭
洪 水
魔法のチョーク
事 業
バベルの塔の狸
解説 佐々木基一
改版は以下のように書き換わっている。
序(石川 淳)
壁
第一部 S・カルマ氏の犯罪
第二部 バベルの塔の狸
第三部 赤い繭
赤い繭
洪 水
魔法のチョーク
事 業
解説 佐々木基一
発表誌年月は「S・カルマ氏の犯罪」が「近代文学」昭和26年2月号、「バベルの塔の狸」が「人間」昭和26年5月号、「赤い繭」が「人間」昭和25年12月号である。つまり旧版では短編も中編も平等に並べられ、「バベルの塔の狸」が最後に掲載されているのに対して、改版では中編の2作品を最初にもってきて、最後に4つの短編を「赤い繭」として一つにまとめているのである。
最初に「S・カルマ氏の犯罪」をもってくるのは最後に主人公の「その中でぼくは静かに果てしなく成長してゆく壁なのです。」という独白で終わるように主人公と「壁」との葛藤が描かれているのだからともかく、次に「バベルの塔の狸」が置かれているのには疑問を禁じ得ない。例えば、「バベルの塔の狸」において壁に関する言及は「消えてしまったぼくの輪郭の代わりに、壁が皮膚の役割をしてくれているのでした。」(改版 p.177)や「真理に対して、大衆はいつもかたくなな壁です。」(同書 p.185)など少ないからである。
それでは短編はどうかといえば、「赤い繭」には「返事の代りに、女の顔が壁に変って、窓をふさいだ。」(同書 p.252)、「魔法のチョーク」には「思わず、そして何げなく、アルゴン君はそのチョークで壁にいたずらを書きはじめていた。」(同書 p.265)とあるが、「洪水」と「事業」においては壁はテーマになっていない。つまり旧版の目次においては少しずつ「壁」の呪縛から逃れているように見えるのである。
そもそも「S・カルマ氏の犯罪」の主人公は名前を失ったことに対して、「バベルの塔の狸」はシャミッソーの『ペーター・シュレミールの不思議な物語(影をなくした男)』のように影を奪われたことで体を失った(正確には透明人間になった)という対照性を見せ、同時に「S・カルマ氏の犯罪」が私小説風になり「バベルの塔の狸」はエンタメ小説風になったのであり、これは安部公房が意図した実験だったはずで、その後、安部公房は私小説に向かい筒井康隆のようなエンターテインメント性に向かうことはなかったと思われる。
「バベルの塔の狸」において主人公に向かって飛んでくる箱に「K. Anten's coffee」と書かれていると思ったら、最後の二字が「in」になっていることに気がつく。旧版ではその指摘だけなのだが、改版では「K. Anten's coffin(K・安天の柩)」と丁寧に書き加えられている(同書 p.193)。しかしそもそも『壁』をそこまで読み込むような読者はもはや存在しないのであろう。