MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

ハーグ派時代のゴッホについて

2019-11-21 00:57:58 | 美術

 現在、上野の森美術館において「ゴッホ展」が催されている。ゴッホが27歳で画家になった頃から晩年までの作品が網羅されている。
 それにしてもオランダの「ハーグ派」は知名度が低いのだが、それも肯るかなと思う理由はテーマも画面の暗すぎるからである。しかしゴッホはヨゼフ・イスラエルス(Jozef Israëls)など一部の画家は高く評価していたようである。

「この冬は昔の絵のなかで気づいた制作手法についてもっとさまざまなことを追跡するつもりだ。僕にとって必要なことをたくさん見てきた。しかし、何はともあれ - いわゆる『一気に描く』 -、ほら、これだよ。昔のオランダの画家たちがみごとにやってのけていたのは。この、わずかな筆さばきで『一気に描く(アンルヴェ)』」ということに今の人は耳を貸そうとしないが、しかし、その結果のなんとすばらしいこと。そして、これこそ多くのフランスの画家たちが、そしてまたイスラエルスがそれをもののみごとにこなしている。(......)
 僕は事がだらだら長びいたり、道をそれたりするのは好まない。それに、あれは致命的問題ではないかね、あの無理やりどこも一様に仕上げるやり方(彼らが仕上げと称するもの)は。明るさと褐色の代わりにあの退屈な、どこも同じ灰色の光 - 色は色調(トーン)の代わりに固有色 - これは嘆かわしいことではないか、ともかく実際そういうことではないかね。
 要するに、こうしたことは誤りだと僕は思う。というのも僕は例えばイスラエルスを実にりっぱだと思うし、また、新しい画家たちのなかにも、昔の画家たちのなかにも感服できる人は数多くいるからだ。(1885年10月 テオ宛ての手紙)」『ファン・ゴッホの手紙』(みすず書房 二見史郎編訳/圀府寺司訳 p.206 2001.11.22)

 (『Alone in the World』 Jozef Israëls 1881 )

 その後、パリに出てきたゴッホが友人に宛てて書いた手紙を引用してみる。

「アムステルダムでは、ぼくは印象派がどういうものであるのかさえ知らなかった。いまでは目の当たり見てきたし、そのクラブの一員ではないにせよ、僕は何人かの印象派の絵、ドガの裸婦、クロード・モネの風景などとてもすばらしいと思った。
 さて、僕自身がやっている仕事について言えば、モデル代に事欠く状態、さもなければ、人物画に専念していたところです。でも、油絵で一連の色彩の習作をやった。もっぱら花の絵で、赤いヒナゲシ、青いヤグルマギクとワスレナグサ、白いピンクのバラ、黄色のキクなど - 青とオレンジ、赤と緑、黄と紫の対照を求め、さらに混和された、中間色の色調を求めて、どぎつい対極の色彩を調和させるようにした。灰色の調和ではなく、強烈な色彩の効果を出そうと努めています。(1886年8月ー10月 H.M.リヴェンズ宛て)」(同書 p.223) 

 「ハーグ派」の視点を持ったゴッホが実物の「印象派」の作品を見て度肝を抜かれた感じが伝わってくる手紙だと思うのだが、実はゴッホは1875年5月から美術商としてグーピル商会のパリ本店で勤務しておりモンマルトルで暮らしている。1875年5月31日付のテオ宛ての手紙にはカミーユ・コロー(Camille Corot)やジュール・ブルトン(Jules Breton)などの名前は上るが印象派の画家の名前はまだ出てこない。(同書 p.5)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする