およそ370mの国道189号の単独路線を歩き切ると米海軍海兵隊岩国基地の正門が現れる。中華民国の総統府周辺の物々しい警戒ぶりとまでは言わないが、緊張感が漂う。気楽に撮影できる場所でないことだけは確かである。
ここは敗戦まで大日本帝国海軍の岩国航空隊の基地(昭和15年に完成)であった。海軍が土地を買収する前は水田が広がっていたという。納得の行かぬ値段で土地を手放し川下地区を離れざるを得なかった人達が多くいたことを我々は記憶に留めておく必要があろう。
岩国出身の医師・丸屋博さん(旧制広島高校卒・入市被爆者)は基地造成について貴重な証言を残している。サイト「中国新聞 生きて」には旧制岩国中学校在籍中に飛行場建設工事にかり出され稲田を赤土で埋めたことが記されている。
私の故郷・福山にも軍用地がいくつかあったが、いずれも地価の安い所(忌み地を含む)で戦後は学校が建設された歴史がある。一般市民が自由に出入りできない場所が戦前にはかなりあったこと(また憲兵・巡査による厳重な監視体制が敷かれていたこと)を今の若者で知っている者は少ない。

ここは敗戦まで大日本帝国海軍の岩国航空隊の基地(昭和15年に完成)であった。海軍が土地を買収する前は水田が広がっていたという。納得の行かぬ値段で土地を手放し川下地区を離れざるを得なかった人達が多くいたことを我々は記憶に留めておく必要があろう。
岩国出身の医師・丸屋博さん(旧制広島高校卒・入市被爆者)は基地造成について貴重な証言を残している。サイト「中国新聞 生きて」には旧制岩国中学校在籍中に飛行場建設工事にかり出され稲田を赤土で埋めたことが記されている。
私の故郷・福山にも軍用地がいくつかあったが、いずれも地価の安い所(忌み地を含む)で戦後は学校が建設された歴史がある。一般市民が自由に出入りできない場所が戦前にはかなりあったこと(また憲兵・巡査による厳重な監視体制が敷かれていたこと)を今の若者で知っている者は少ない。

