京橋西詰から少し下ったところ(電車通り沿い)に大手饅頭伊部屋(岡山市北区京橋町8-2)はある。正月ということもあって店は特に繁盛していた。
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30とか50の単位で饅頭を求める客に女性従業員がてきぱきと対応する。流石老舗の従業員教育は行き届いている。私は店の隅にさり気なく置かれていた『味の味№594(平成27年1月1日発行)』を手に取り35ページの広告に目を通した。
備前名物
大手饅頭伊部屋
創業天保8年(1837年)
大手饅頭は天保8年弊店の初代伊部屋永吉が創製、当時の備前藩主池田候からとくに寵愛を受け御茶会の席には必ず伊部焼の茶器とともに愛用されてきました。大手饅頭の名称は、当店が岡山城大手門の附近にあったため藩侯からいただいたと伝えられております。その親しみやすい名前と風味豊かな味わいは当時から備前名物としてご好評をいただきました。以来170年当店はこの伝統の味をまもっております。
大手饅頭伊部屋本店は岡山空襲で焼失し現在の建物は敗戦後からしばらくして再建されたものだという。戦前の店の様子などを内田百閒は詳細に書き遺している。
私は川東の古京町の生れなので賑やかな町の真中へ出て行くには先ずつち橋を渡り、それから小橋中橋を渡る。京橋は蒲鉾の背中の様なそり橋であって、真中の一番高い所に立つと橋本町西大寺町から新西大寺町の通が一目に見渡せた。誓文払の売出しの提灯のともった晩などは、橋の上から眺めてこんな繁華な町が日本中にあるだろうかと思ったりした。
そり橋の京橋は木橋であって、左右両側に敷いた板のつぎ目の真中の筋に、西中三間の袂から橋本町へかけて三寸幅ぐらいの鉄の板が真直ぐに通っていた。寒い夜はその上に霜がおりてつるつる滑った。月の良い晩はそこだけが銀の帯の様に光った。
京橋を渡って橋本町にかかると左側の川沿いの一段高くなった所に交番がある。その前の、船着町の方へ行く道を隔てた角に四階楼が聳えていた。料理屋なのか饂飩屋なのか、上がった事がないからよく知らない。
私は今でも大手饅頭の夢を見る。ついこないだの晩も同じ夢を見たばかりである。東京で年を取った半生の内に何十遍大手饅頭の夢を見たか解らない。饅頭を食べるだけの夢でなく大手饅頭の店が気になるのである。店の土間の左側の奥に釜があって蒸籠からぷうぷう湯気を吹いている。右寄りの畳の上でほかほかの饅頭をもろぶたに列べている。記憶の底の一番古い値段は普通のが一つ二文で新式に云うと二厘であった。大きいのは五厘で、一銭のは飛んでもなく大きく皮が厚いから白い色をしている。それは多分葬式饅頭であったと思う。
『古里を思う 京橋の霜(昭和二十一年四月)』
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現在の大手饅頭(表記は大手まんぢゅう)は1個60円(税抜)。小豆の漉し餡を甘酒と小麦粉で作った皮で包み蒸し上げるという製法は昔と同じだが、良質の水を求めて中区雄町に工場を建設した。味を守るのはなかなか大変なことなのだ。
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30とか50の単位で饅頭を求める客に女性従業員がてきぱきと対応する。流石老舗の従業員教育は行き届いている。私は店の隅にさり気なく置かれていた『味の味№594(平成27年1月1日発行)』を手に取り35ページの広告に目を通した。
備前名物
大手饅頭伊部屋
創業天保8年(1837年)
大手饅頭は天保8年弊店の初代伊部屋永吉が創製、当時の備前藩主池田候からとくに寵愛を受け御茶会の席には必ず伊部焼の茶器とともに愛用されてきました。大手饅頭の名称は、当店が岡山城大手門の附近にあったため藩侯からいただいたと伝えられております。その親しみやすい名前と風味豊かな味わいは当時から備前名物としてご好評をいただきました。以来170年当店はこの伝統の味をまもっております。
大手饅頭伊部屋本店は岡山空襲で焼失し現在の建物は敗戦後からしばらくして再建されたものだという。戦前の店の様子などを内田百閒は詳細に書き遺している。
私は川東の古京町の生れなので賑やかな町の真中へ出て行くには先ずつち橋を渡り、それから小橋中橋を渡る。京橋は蒲鉾の背中の様なそり橋であって、真中の一番高い所に立つと橋本町西大寺町から新西大寺町の通が一目に見渡せた。誓文払の売出しの提灯のともった晩などは、橋の上から眺めてこんな繁華な町が日本中にあるだろうかと思ったりした。
そり橋の京橋は木橋であって、左右両側に敷いた板のつぎ目の真中の筋に、西中三間の袂から橋本町へかけて三寸幅ぐらいの鉄の板が真直ぐに通っていた。寒い夜はその上に霜がおりてつるつる滑った。月の良い晩はそこだけが銀の帯の様に光った。
京橋を渡って橋本町にかかると左側の川沿いの一段高くなった所に交番がある。その前の、船着町の方へ行く道を隔てた角に四階楼が聳えていた。料理屋なのか饂飩屋なのか、上がった事がないからよく知らない。
私は今でも大手饅頭の夢を見る。ついこないだの晩も同じ夢を見たばかりである。東京で年を取った半生の内に何十遍大手饅頭の夢を見たか解らない。饅頭を食べるだけの夢でなく大手饅頭の店が気になるのである。店の土間の左側の奥に釜があって蒸籠からぷうぷう湯気を吹いている。右寄りの畳の上でほかほかの饅頭をもろぶたに列べている。記憶の底の一番古い値段は普通のが一つ二文で新式に云うと二厘であった。大きいのは五厘で、一銭のは飛んでもなく大きく皮が厚いから白い色をしている。それは多分葬式饅頭であったと思う。
『古里を思う 京橋の霜(昭和二十一年四月)』
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現在の大手饅頭(表記は大手まんぢゅう)は1個60円(税抜)。小豆の漉し餡を甘酒と小麦粉で作った皮で包み蒸し上げるという製法は昔と同じだが、良質の水を求めて中区雄町に工場を建設した。味を守るのはなかなか大変なことなのだ。
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