寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

福山市沖野上町5丁目30・五本松(後編)

2015年08月06日 | 郷土史
五本松の新四国八十八ケ所霊場に関しては『おもしろふくやま史 / 平井隆夫(二〇〇一年)』の説明が分かりやすいので一部を紹介しておこう。

大師堂内部


川口新四国八十八ケ所(九)
 …五本松という所に…道路脇にお堂がぽつんと建っています。この堂の中には七十番持宝院本山寺(馬頭観音)が祀られています。

 この七十番のお堂の前に七十一番八国寺弥谷寺(千手観音)が祀られています。…文政十年(一八二七年)の多治米村見取場改帳の中には「五本松渡下入会所」と記入されたものがあり、竿入が行われた覚書があります。この当時既に五本松が地名として呼称され、「五本松渡」とある事から、ここより対岸水呑村へ通じる渡船があった事が立証されます。

石仏


真偽は不明だが、別の書物に石仏と御仕置場との関係を仄めかす記述がある。近世警察の成立とその果たした役割を研究する者にとっては気になる一文だ。

五本松界隈 ◆沖野上町5丁目
 水野藩ではその後も寛文九年(一六六九)に多治米新涯、寛文十一年(一六七一)には川口新涯を造成したが、川口新涯が造成されたときの海防塘は、南正木角から東一ツ樋までが千八間(沖堤という)、東一ツ樋より松ヶ端までが七百六十間(東堤)という、多治米村境より南正木角までが五百九間(西堤という)で、松ヶ端より西堤までが千二百七十五間と記録されている。一ツ樋から正木角までの沖堤は今の汐廻川がその名残りだ。
 阿部家福山藩の時代、罪人の処刑は五本松で行われたが、その跡地に祀られたのが、現在五本松交差点南西側にある観音堂内の石仏だと思える。

『備後の歴史散歩‹上› / 森本肇 山陽新聞社 一九九五(平成七年)』

記念碑

記念碑裏


お堂の前に建つ五本松道改修寄附者の石碑(昭和十四年四月吉日の刻銘あり)は福山市の発展の過程を知る上で重要な建造物だと思う。今は無き旧道を調べる手がかりは『福山市多治米町誌(平成五年・1993)』にあった。

五本松道
 箕島から三角新涯(昔、潮の引いた時に通るため水中道路といった)を通って源七端に出て五本松に至る道、内土手道があった。箕島・新涯からは、この道も福山の中心部へ行くには近かったが、五本松から西に振れて野上土手道を進み鷹取(地吹の荒神社)から霞町に出ていた。そこで昭和一四年に多治米町など地元有志が協議し、五本松から背戸川に架かる瓢箪橋(※)を渡り練兵場(現三菱電機福山工場)の南の角に向けて斜めに道を付けた。これが『五本松道』である。五本松の一角に『五本松道改修石碑』として昭和一四年四月建立されている。地元関係者が勤労奉仕し築造したが、人夫五百人と刻されている。連隊への肥取りや野菜の搬入に便利になった。昭和二三年の航空写真でははっきりわかるが、現在は沖野上耕地整理によりこの道の影はない。※『瓢箪橋』の命名由来は不明。

沖野上町4丁目(西)交差点

五本松道は現在の沖野上町4丁目(西)交差点から北東方向へ延びていたものと思われる。旧道はお堂からはるやま福山沖野上店前(南側)、そして福山医療センターの敷地を通って三菱電機株式会社福山製作所の南端と繋がっていたのだろう。

三菱電機福山製作所

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戦前の絵葉書(廣島名勝)宇品港

2015年08月06日 | 日記
広島市南区の宇品には戦前軍事施設などがあったが、爆心からかなり離れていたため被害は軽かったという。私が大学に入った頃はまだ宇品港(現在の広島港)と呼ばれており広電の1番と5番が宇品行きだった。母校前を通るのは1番の方だが、同じ下宿にいた男(総合科学部の理系)は入試の際に深く考えずに終着駅が一緒の5番に乗り顔面蒼白となって試験会場までタクシーを飛ばすヘマをやらかした。私が学生時代に宇品港発の船を利用したのは、オリエンテーションキャンプと卒業前の松山旅行の二回だ。

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