水呑町在住の器の大きい男性から光小学校の東端から南端へと延びる小道附近が鞆鉄道の高架(ルート変更後)跡だと教えてもらってもう5年位になる。その時は疑問が解けて単純に嬉しかったのだが、最近は別の意味で彼に感謝するようになった。『福山空襲の記録(非売品 昭和五十年)』から三人の回顧録(一部)を引用して話の本題に入ろう。
「戦災前後の思い出 橋本 朋一」
…私も任務が一段落したので応援に出かけ、死体をむしろに巻いて自転車に積み、芦田川の堤防に造った臨時の焼き場へ持っていく。堤防の上には死人の氏名を書いた木札が立てられたが、死体の中には宿屋に泊っていた旅行者もあり、住所、氏名共に不明なものが何体もある、全ての死体処理には二、三日を要したと思う。さらに三吉町の避病舎が焼けたので、多数のチブス患者を背負っては自転車にのせ、蔵王町の病舎に収容したが、お互いに気が立っているので、伝染病という概念すら起きなかった。夕やみせまる頃、ろくに食事もしない疲れ切って棒のようになった脚をひきずってとぼとぼ帰る時の心の空しさは、経験者でなくてはとうてい想像できまい。
「空襲・終戦・進駐軍 島田 薫荘(※当時 福山警察署長 四十三才)」
(五)屍体の処理
芦田川原の鞆行大橋下流から鞆軽便鉄道鉄橋附近までを事前に処理する場所と決めてあった。川原を浅く掘り一列に並べて焼く、その際、旧住所・氏名を明記した札を掲示すること、氏名不明の場合は着衣人相・性別・死亡場所等を表札に記載することになっていた。
「戦災対策から戦後へ 福本 栄一」
八、時はまさに八月の初め、最も暑さの激しいころである。屍体の収容は死後二・三日を経てである。しかも多くが水によって死んで居るため屍体は腐乱し、眼球は飛出し、屍体全体がふくれ上がって、臭気は眼にまで浸透する。触れればくずれてしまう。実に酸鼻のきわみであった。ふきんから焼けトタンをはこんで、ゆっくりとそれにのせて運搬用自動車に載せて、焼却場として芦田川河川敷(旧鞆鉄々橋下神島橋より三百メートル位下流)に運ぶのである。運行中は耐えられるとしても自動車が止まれば荷台の臭気で息が詰まる思いである。「本日は屍体収容班」とでも命令せられた消防団員は、制服姿のまま、どんどん逃げ出すと云う始末であった。
土手(芦田川左岸堤防)下の用水は千代田・新涯方面へと流れていく(鷹取川が廃川となって新たに造られた灌漑用水)。土手に上がり北を向くと右手に小学校、左手に草戸大橋が見える。
戦時中この辺りから対岸(南西側)の水呑町・半坂橋交差点そばにかけて鞆鉄道の鉄橋が架かっていたことになる。グーグルアースで確認すると草戸大橋から下流の鉄橋までは直線距離で約300メートルである。土手を下りた川原(防災訓練が行われる辺)が臨時の焼き場となった(奈良津の市営火葬場は空襲の被害で使えなくなった)ようである。テレビや新聞で取り上げることはないが、福山市民には記憶に留めておいてほしい一帯だ。
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「戦災前後の思い出 橋本 朋一」
…私も任務が一段落したので応援に出かけ、死体をむしろに巻いて自転車に積み、芦田川の堤防に造った臨時の焼き場へ持っていく。堤防の上には死人の氏名を書いた木札が立てられたが、死体の中には宿屋に泊っていた旅行者もあり、住所、氏名共に不明なものが何体もある、全ての死体処理には二、三日を要したと思う。さらに三吉町の避病舎が焼けたので、多数のチブス患者を背負っては自転車にのせ、蔵王町の病舎に収容したが、お互いに気が立っているので、伝染病という概念すら起きなかった。夕やみせまる頃、ろくに食事もしない疲れ切って棒のようになった脚をひきずってとぼとぼ帰る時の心の空しさは、経験者でなくてはとうてい想像できまい。
「空襲・終戦・進駐軍 島田 薫荘(※当時 福山警察署長 四十三才)」
(五)屍体の処理
芦田川原の鞆行大橋下流から鞆軽便鉄道鉄橋附近までを事前に処理する場所と決めてあった。川原を浅く掘り一列に並べて焼く、その際、旧住所・氏名を明記した札を掲示すること、氏名不明の場合は着衣人相・性別・死亡場所等を表札に記載することになっていた。
「戦災対策から戦後へ 福本 栄一」
八、時はまさに八月の初め、最も暑さの激しいころである。屍体の収容は死後二・三日を経てである。しかも多くが水によって死んで居るため屍体は腐乱し、眼球は飛出し、屍体全体がふくれ上がって、臭気は眼にまで浸透する。触れればくずれてしまう。実に酸鼻のきわみであった。ふきんから焼けトタンをはこんで、ゆっくりとそれにのせて運搬用自動車に載せて、焼却場として芦田川河川敷(旧鞆鉄々橋下神島橋より三百メートル位下流)に運ぶのである。運行中は耐えられるとしても自動車が止まれば荷台の臭気で息が詰まる思いである。「本日は屍体収容班」とでも命令せられた消防団員は、制服姿のまま、どんどん逃げ出すと云う始末であった。
土手(芦田川左岸堤防)下の用水は千代田・新涯方面へと流れていく(鷹取川が廃川となって新たに造られた灌漑用水)。土手に上がり北を向くと右手に小学校、左手に草戸大橋が見える。
戦時中この辺りから対岸(南西側)の水呑町・半坂橋交差点そばにかけて鞆鉄道の鉄橋が架かっていたことになる。グーグルアースで確認すると草戸大橋から下流の鉄橋までは直線距離で約300メートルである。土手を下りた川原(防災訓練が行われる辺)が臨時の焼き場となった(奈良津の市営火葬場は空襲の被害で使えなくなった)ようである。テレビや新聞で取り上げることはないが、福山市民には記憶に留めておいてほしい一帯だ。
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