寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

横浜の悪所に向かう(その2)

2008年12月22日 | 

細い路地を出て京急「日ノ出町駅」方面に向かう。私は興奮気味の名人に話しかけた。

「ほんまに見ていて飽きない界隈だ。成人向けの宿に風呂に、そして劇場だぜ。目出度い名前がつく所は大抵遊里だからな(笑)」

「へえ、そうなんだ」

京浜急行「日ノ出町駅」


「確か長谷川伸の碑がこの辺にあるはずだけど」

「あの長谷川伸が日ノ出町出身とは知らなかったよ。歩いてみるもんだな。少しは賢くなる(笑)」

長谷川伸は日ノ出町で生まれた

「大岡川」に架かる「長者橋」の袂付近に「長谷川伸生誕の地」と刻まれた石碑があった。明治時代、この川沿いには怪しげな「牛鍋屋」がたくさんあったという。私達は遊歩道を南に進んだ。

「大岡川」沿いの日ノ出町ガード下

にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横浜の悪所に向かう(その1)

2008年12月22日 | 

「名人。寄り道してもいいかな?」

「おぅ。面白いもんでも見つかったの」

「まー行けばわかるよ(笑)」

「はいはい」

横浜市中区野毛町1丁目の「成人風呂」

「野花商店会」という表示が出た通りを西南に進む。野毛町の居酒屋の先には「連れ込み宿」と「成人風呂」があった。

「すごい所があるんだね」

「こんなもんで驚いてちゃいかんよ。まだまだありまっせ、香ばしいんが」

横浜市中区宮川町2丁目の「成人風呂」

宮川町でも同様の「風呂」を見つけ名人はニヤニヤしていた。次の辻を右に曲がり太い道路が見えた。

にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横浜市中区野毛町の「場外馬券売場」界隈

2008年12月21日 | 

汗びっしょりになって集合場所に到着した。鉄オタの柳川名人とはほぼ1年振りの再会である。

「ご免。5分の遅刻だ。早く着いたんで港の方を観光してたんだよ」

「何だ、もう見てきたの。そっちに行こうかと考えていたんだけど」

「すまんね。今日は横浜裏観光にしよう。普段行かないような所を歩いてみるかな」

「ほう。怖いような面白いような。取りあえず行ってみようか」

野毛町の「場外馬券売場」から冴えない顔をして出てくるおっさん達とすれ違い「お茶屋」の脇道を進む。「馬券売場」の裏手に「牛すじ煮込み」の看板を出した立ち飲み所がある。

買っても負けてもおっさんはここで酒をあおりストレスを発散するのであろう。ちょっと入ってみたかったが、準備中のようであった。

横浜市中区野毛町の「たてちゃん」

にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「象の鼻地区」再整備事業進行中

2008年12月21日 | 

横浜港に面する「遊歩道」の傍らに大きな看板が設置してあった。私は立ち止まり「象の鼻地区」の説明書きを読んだ。

「象の鼻地区」の説明書き

 赤レンガパークと山下公園を結び、象の鼻地区の中央部を通っている「山下臨港線プロムナード」から海を眺めると、大さん橋国際乗船ターミナルのつけねから左手方向へ延びている防波堤があります。この防波堤を上から見ると象の鼻に似ていることから、通称「象の鼻」と呼んでいます。

平成21(2009)年に横浜は開港150周年を迎える。「象の鼻」地区を再整備して「多目的レストハウス」や「野外ステージ」などを建設し、来年6月頃のオープンを予定しているとのこと。

「新港橋」を渡り、大きな「赤レンガ倉庫」を眺めた。「新港サークルウォーク」の下まで来た私は「万国橋」へ向かった。

「横浜赤レンガ倉庫」

にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久し振りに横浜の地を踏む

2008年12月20日 | 

私は上海蟹を食べるために「横浜中華街」へは何度も足を運んでいる。中華街は「神戸」にもあるが、あらゆる面で「横浜」の圧勝である。

関東を代表する巨大都市「横浜」はかつての「醜い部分」をオブラートで包み込むことに成功している。これが泥臭い「神戸」との大きな違いで、私などは「洗練されたイメージ」を受ける。

いつも中華街で酔いが回り、名建築群を見ることなく帰京していたが、幸いにもこの日は余裕があった。昭和3(1928)年竣工の「神奈川県庁本庁舎」を見て港の方に向かう。

美しいシルエットの「横浜税関」は三代目の庁舎として昭和9(1934)年に完成している。

横浜市中区海岸通の「横浜税関」

にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「肉の菊屋 東向島店」のメンチカツ

2008年12月19日 | 

「肉の菊屋 東向島店」は「いろは通り」に入る手前にある。分店を幾つも持つ「玉の井」界隈の精肉店で近所の人が頻繁に買いに訪れる。肉の他に揚げ物も売っていたのでメンチカツ(120円)とコロッケ(70円)を買い求めた。

お金を渡そうとする私におっちゃんがボソボソと話しかけてきた。最初は何のことか理解できなかったが、「ソースかける?」と聞いていたのである。この大阪のような気遣いはうれしい。ソースを吸い込んだ熱々の揚げ物にかぶりつく。衣はサクサクだ。

しっかり味がついていてこれは飯のおかずになる。肉屋さんの作るメンチやコロッケが一味違うのはいろんな部位を混ぜてひき肉にしているからだろう。カットの際に出る端肉(味は良いが売り物にはならない)を無駄にしないのが「本当のプロ」である。

昔の台湾人は正月用の腸詰を肉屋さんに作ってもらう際に肉の部位と配合割合までを指定したという。日本人も肉についてもう少し勉強した方がよい。極めて悪質な「偽装表示」で食肉業界の信用はガタ落ちであるが、真っ当な仕事をしている業者も多数あることを忘れてはならない。

『騙す方も悪いが、騙される方はもっと愚か』なのである(中国人の有名な台詞)。賢い人は日頃から目と舌を鍛え、適正価格がどれくらいなのか常に調べている。安過ぎるのも高過ぎるのも非常に怪しいのである(笑)

メンチカツ(上)とコロッケ(下)

にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「玉の井」探訪(その6)

2008年12月19日 | 

焼肉店がある辻まで戻り右に曲がって南下。「らむーる」という飲み屋のそばに「バルコニーを持つ家」を発見した。ここはアイボリーに塗り直しているが、丸柱をよく見ると元々はタイル貼りであったことがわかる。

墨田3丁目2の「アイボリーハウス」

赤線時代には鮮やかなタイル装飾が施されていたのかもしれない。バルコニーに派手な柄の毛布が2枚も干してあり少し違和感を感じた。ここから路地をほぼ真っ直ぐに北へ進んだ。

墨田3丁目23のレトロな銭湯「隅田湯」

突き当たりに銭湯「隅田湯」がある。色街ゆえなのか、屋根の格好などは随分と変わっている。これで私の「新玉の井」探訪は終り、時間潰しにクドウヒロミさんが『モツ煮狂い 第二集(平成烏有堂 2007年)』で紹介した「もつ酒場」の場所を確かめに行ったのである。

にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「玉の井」探訪(その5)

2008年12月18日 | 

「新玉の井」界隈では有名な「焼肉店」を通り過ぎ辻に出た。更に東へ少し進むと人を威圧するかのような館が現れた。思わず「これだよ!」という言葉が出た。私の近くで作業していた建築業者は明らかに苦笑していた。

墨田3丁目2界隈

先の「ホワイトハウス」と同様に代表的な遊里の建物だ。変色した壁の色から昭和20年代に建てられたものと思われる。赤線廃止から半世紀が経過した現在でも異彩を放ち続けている。

玉の井の代表的な元「娼館」

にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「玉の井」探訪(その4)

2008年12月17日 | 

電柱の対面に居酒屋があり、店名は何と「かるたご」だ。ローマの元老院議員大カトーは繁栄を続けるカルタゴに対して偏執的と言ってもよいほど憎悪の念を燃やしていた。彼の煽動及び策略によってカルタゴはついに滅ぼされてしまう。

「お上」は「赤線経営者」からの税金を大いに当てにしていた時があったのにこの仕打ちは酷いじゃないか(=蜜月関係は短過ぎた)と暗に皮肉ったのか、なかなか意味深ではある。

東へ20mほど歩いて振り返ってみた。どの建物も「過去の歴史」を包み隠さず私に見せているような気がして肩が重くなった。敗戦後、一時代を築いた「赤線」の雰囲気を堪能するにはこの路地を歩くのがベストだ。

墨田3丁目12辺りから居酒屋「かるたご」方面を望む

にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「玉の井」探訪(その3)

2008年12月16日 | 

左に曲がるとスナックが三軒並んでいる。「せいこ」から二軒先に位置する「恋心」、ドアの前に設置された「短いポール」を見て笑った。赤ペンキで「車ぬけられません」と書いてある。

墨田3丁目8のスナック「恋心」

洒落と受け取るのが自然だが、日本語に間違いはない。路地を通過できる乗り物は自転車くらいで、原付を運転するにはかなりの危険を伴う。

スナックが並ぶ通りを歩いて、多くの雑誌に掲載された「赤線時代の建物」を目にすることになる。

墨田3丁目7辺りを撮影

にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「玉の井」探訪(その2)

2008年12月15日 | 

私は旧寺島町7丁目を歩いていることになる。「グルメシティ東向島(スーパー)」の奥に建っているのが「満願稲荷」である。「いろは通り」の北側が墨田3丁目、南側が東向島5丁目になる。

荷風先生が遊び歩いた界隈は「いろは通り」と「平和通り」に挟まれたエリア(東向島5丁目)に当たり、細い路地が入り組んで蛇行している。一度歩いただけでは絶対に位置関係が分からないくらい複雑で摩訶不思議な空間だ。私がウダウダ書くよりは小沢昭一さんのエッセイを読んだ方が早い(笑)

 私娼窟といわれた玉の井は、大正の半ば、浅草寺裏の道路整備のため、そこの銘酒屋が、五、六軒移転してきたのが始まりだと『玉の井挽歌』(大林清・昭和五十八年・青蛙房)や『玉の井という街があった』(前田豊・昭和六十一年・立風書房)に詳しいのですが、その後、関東大震災で焼け出された浅草十二階下の銘酒屋が大挙、向島の寺島町界隈へ移ってきたのです。

 その戦前の玉の井は、暗い路地がくねくねと迷路のようになっていて、でもそういう町のドブの汚さと蚊の群れとかを、むしろ妙味とする陋巻好みの人種によろこばれたようです。

 昭和二十年三月十日の大空襲で、玉の井の町は全焼したのですが、戦災後、業者はその玉の井に隣接した焼け残りの地域に移って、こんどはカフェー風の店構えで、七、八十軒営業をはじめました。その新しい玉の井も、やはり、クネクネとドブ板を渡る暗い路地つづきで、旧玉の井名物だった路地の入口の「抜けられます」の看板も復活していて、私など、十分、荷風の世界を満喫できたものです。

 どうみてもオバサンが、セーラー服を着て縦長の細い窓から「お兄さん、お話だけ」と呼びかける店もありまして、あれ、今日のフーゾクのコスプレのはしりでしたなぁ。

 『東京人no.186 色街慕情 / 小沢昭一』

「旧玉の井」ついては多くの研究者(=物好き)が詳細な調査を行っているのでここでは割愛させていただく。

墨田3丁目8にある「中華料理屋」と「パン屋」

「中華料理屋」と「パン屋」の間の小道を進むと右手に「倉」そして左手に「空き地」が見える。そして道が二股に分かれる所にかの有名な「ホワイトハウス」がある。バルコニーを持つカフェー調の建物だ。

ここから右に折れて細い通りに出た。

私が勝手に名づけた「ホワイトハウス」

にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「玉の井」探訪(その1)

2008年12月14日 | 

墨田区東向島5丁目の「城東獣医科」から「玉の井御殿」跡に向かう。いかに広大な敷地であったが分かる。昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲でこの一帯は焦土と化したが、頑丈な塀だけは残ったらしい。

「玉の井御殿」の塀

私は五差路交差点を確認して「いろは通り(旧大正通り)」に入った。「墨田3丁目交番」の脇道から「新玉の井」に向かう手もあったが、メインストリートを北東に進むことにした。

交番(画像中央)から右手の道が「いろは通り」

にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東武鉄道・伊勢崎線「東向島駅」に到着

2008年12月13日 | 

墨田区東向島4丁目に東武鉄道の「東向島駅」がある。昔は「玉ノ井」という駅名だった。永井荷風先生はこの界隈(戦前の私娼窟)を舞台にした有名な小説を残している。

私は路線に沿って北に向かって歩き始めた。左手に「蓬莱軒」や「坂本せん餅」が建っている。『赤線跡を歩く【完結編】/ 木村聡 著』(自由国民社 2007年)を参考に「玉の井」を探訪した人は多いだろう。脂汗を浮かべたおっさんがカメラを片手に私と同じ方向に進路をとっていた(笑)

墨田区東向島5丁目8の辺り

にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「鳩の街」に残るカフェー調建築(その3)

2008年12月12日 | 

最も有名なカフェー調建築の前に立ち「流石に金をかけている」と呟いた。表玄関は和の雰囲気だが、側面に設けられたドアは完全に洋風の造りになっている。

重厚な造りのドア

バルコニーにもたれ掛かる女性を思い浮かべた

赤線に特有のバルコニーを持つ家。遊女は2階から帰る客を見送ったという。今ではバルコニーに布団を干した光景をよく見かける。使用目的は時代とともに大きく変わるということだ。

東向島1丁目にあった廃墟

私は更に目ぼしい物件を探して歩いた。少し東の方へ行くと行き止まりで廃墟があった。一目でかつて娼婦が働いていた店だと分かったが、扉に「ステンドグラス」がはめ込まれているのを危うく見落とすところだった。鮮やかな緑が印象的な「木の葉」のデザインが見事だ。

ステンドグラスの入った扉に注目!

ギラギラした遊里の文化を作り上げたのは業者・売春婦・客だけではない。建物の装飾を担当した人達の仕事にもっと焦点を当ててもよいと私は思う。タイル貼りやステンドグラス職人の技術には本当に惚れ惚れする。「原色の街」における「陰の功労者」は彼らであろう。

にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「鳩の街」に残るカフェー調建築(その2)

2008年12月12日 | 

カフェー調建築は東向島1丁目23~24辺りに集中している。入口付近に散りばめられた原色のタイルを見て私は「ケバケバしい」と思ったが、当時は斬新な装飾で好色男の目を引くには最適だったのだろう。

入口が複数ある家

かつての遊び場は民家となり、狭い路地に自転車が多数置いてある。都電が廃止されてから自転車は生活必需品になっているようだ。自転車に乗って「鳩の街通り商店街」を走るご婦人方の運転の乱暴なこと、これには参った(笑)

赤線全盛期は「原色の街」だった

にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする