汗びっしょりになって集合場所に到着した。鉄オタの柳川名人とはほぼ1年振りの再会である。
「ご免。5分の遅刻だ。早く着いたんで港の方を観光してたんだよ」
「何だ、もう見てきたの。そっちに行こうかと考えていたんだけど」
「すまんね。今日は横浜裏観光にしよう。普段行かないような所を歩いてみるかな」
「ほう。怖いような面白いような。取りあえず行ってみようか」
野毛町の「場外馬券売場」から冴えない顔をして出てくるおっさん達とすれ違い「お茶屋」の脇道を進む。「馬券売場」の裏手に「牛すじ煮込み」の看板を出した立ち飲み所がある。
買っても負けてもおっさんはここで酒をあおりストレスを発散するのであろう。ちょっと入ってみたかったが、準備中のようであった。


横浜港に面する「遊歩道」の傍らに大きな看板が設置してあった。私は立ち止まり「象の鼻地区」の説明書きを読んだ。

赤レンガパークと山下公園を結び、象の鼻地区の中央部を通っている「山下臨港線プロムナード」から海を眺めると、大さん橋国際乗船ターミナルのつけねから左手方向へ延びている防波堤があります。この防波堤を上から見ると象の鼻に似ていることから、通称「象の鼻」と呼んでいます。
平成21(2009)年に横浜は開港150周年を迎える。「象の鼻」地区を再整備して「多目的レストハウス」や「野外ステージ」などを建設し、来年6月頃のオープンを予定しているとのこと。
「新港橋」を渡り、大きな「赤レンガ倉庫」を眺めた。「新港サークルウォーク」の下まで来た私は「万国橋」へ向かった。


「肉の菊屋 東向島店」は「いろは通り」に入る手前にある。分店を幾つも持つ「玉の井」界隈の精肉店で近所の人が頻繁に買いに訪れる。肉の他に揚げ物も売っていたのでメンチカツ(120円)とコロッケ(70円)を買い求めた。
お金を渡そうとする私におっちゃんがボソボソと話しかけてきた。最初は何のことか理解できなかったが、「ソースかける?」と聞いていたのである。この大阪のような気遣いはうれしい。ソースを吸い込んだ熱々の揚げ物にかぶりつく。衣はサクサクだ。
しっかり味がついていてこれは飯のおかずになる。肉屋さんの作るメンチやコロッケが一味違うのはいろんな部位を混ぜてひき肉にしているからだろう。カットの際に出る端肉(味は良いが売り物にはならない)を無駄にしないのが「本当のプロ」である。
昔の台湾人は正月用の腸詰を肉屋さんに作ってもらう際に肉の部位と配合割合までを指定したという。日本人も肉についてもう少し勉強した方がよい。極めて悪質な「偽装表示」で食肉業界の信用はガタ落ちであるが、真っ当な仕事をしている業者も多数あることを忘れてはならない。
『騙す方も悪いが、騙される方はもっと愚か』なのである(中国人の有名な台詞)。賢い人は日頃から目と舌を鍛え、適正価格がどれくらいなのか常に調べている。安過ぎるのも高過ぎるのも非常に怪しいのである(笑)


焼肉店がある辻まで戻り右に曲がって南下。「らむーる」という飲み屋のそばに「バルコニーを持つ家」を発見した。ここはアイボリーに塗り直しているが、丸柱をよく見ると元々はタイル貼りであったことがわかる。

赤線時代には鮮やかなタイル装飾が施されていたのかもしれない。バルコニーに派手な柄の毛布が2枚も干してあり少し違和感を感じた。ここから路地をほぼ真っ直ぐに北へ進んだ。

突き当たりに銭湯「隅田湯」がある。色街ゆえなのか、屋根の格好などは随分と変わっている。これで私の「新玉の井」探訪は終り、時間潰しにクドウヒロミさんが『モツ煮狂い 第二集(平成烏有堂 2007年)』で紹介した「もつ酒場」の場所を確かめに行ったのである。

私は旧寺島町7丁目を歩いていることになる。「グルメシティ東向島(スーパー)」の奥に建っているのが「満願稲荷」である。「いろは通り」の北側が墨田3丁目、南側が東向島5丁目になる。
荷風先生が遊び歩いた界隈は「いろは通り」と「平和通り」に挟まれたエリア(東向島5丁目)に当たり、細い路地が入り組んで蛇行している。一度歩いただけでは絶対に位置関係が分からないくらい複雑で摩訶不思議な空間だ。私がウダウダ書くよりは小沢昭一さんのエッセイを読んだ方が早い(笑)
私娼窟といわれた玉の井は、大正の半ば、浅草寺裏の道路整備のため、そこの銘酒屋が、五、六軒移転してきたのが始まりだと『玉の井挽歌』(大林清・昭和五十八年・青蛙房)や『玉の井という街があった』(前田豊・昭和六十一年・立風書房)に詳しいのですが、その後、関東大震災で焼け出された浅草十二階下の銘酒屋が大挙、向島の寺島町界隈へ移ってきたのです。
その戦前の玉の井は、暗い路地がくねくねと迷路のようになっていて、でもそういう町のドブの汚さと蚊の群れとかを、むしろ妙味とする陋巻好みの人種によろこばれたようです。
昭和二十年三月十日の大空襲で、玉の井の町は全焼したのですが、戦災後、業者はその玉の井に隣接した焼け残りの地域に移って、こんどはカフェー風の店構えで、七、八十軒営業をはじめました。その新しい玉の井も、やはり、クネクネとドブ板を渡る暗い路地つづきで、旧玉の井名物だった路地の入口の「抜けられます」の看板も復活していて、私など、十分、荷風の世界を満喫できたものです。
どうみてもオバサンが、セーラー服を着て縦長の細い窓から「お兄さん、お話だけ」と呼びかける店もありまして、あれ、今日のフーゾクのコスプレのはしりでしたなぁ。
『東京人no.186 色街慕情 / 小沢昭一』
「旧玉の井」ついては多くの研究者(=物好き)が詳細な調査を行っているのでここでは割愛させていただく。

「中華料理屋」と「パン屋」の間の小道を進むと右手に「倉」そして左手に「空き地」が見える。そして道が二股に分かれる所にかの有名な「ホワイトハウス」がある。バルコニーを持つカフェー調の建物だ。
ここから右に折れて細い通りに出た。


最も有名なカフェー調建築の前に立ち「流石に金をかけている」と呟いた。表玄関は和の雰囲気だが、側面に設けられたドアは完全に洋風の造りになっている。


赤線に特有のバルコニーを持つ家。遊女は2階から帰る客を見送ったという。今ではバルコニーに布団を干した光景をよく見かける。使用目的は時代とともに大きく変わるということだ。

私は更に目ぼしい物件を探して歩いた。少し東の方へ行くと行き止まりで廃墟があった。一目でかつて娼婦が働いていた店だと分かったが、扉に「ステンドグラス」がはめ込まれているのを危うく見落とすところだった。鮮やかな緑が印象的な「木の葉」のデザインが見事だ。

ギラギラした遊里の文化を作り上げたのは業者・売春婦・客だけではない。建物の装飾を担当した人達の仕事にもっと焦点を当ててもよいと私は思う。タイル貼りやステンドグラス職人の技術には本当に惚れ惚れする。「原色の街」における「陰の功労者」は彼らであろう。
