澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

「野村浩一氏インタビュー」を読んで

2008年10月28日 16時16分33秒 | 中国
インターネットを検索していたら、見覚えのある人物の名前にぶつかった。立教大学名誉教授の野村浩一氏。中国政治思想史の学者として有名な人だ。


《野村浩一著「蒋介石と毛沢東」》

野村氏へのインタビューは、昨年、東京大学で行われたもので、後輩に当たる村田雄二郎という東京大学教授が、インタビューしている。
今年でもう78歳になったのかと思ったが、インタビューの内容は、部外者にとっても興味深いものだった。

野村氏は、1930年生まれ、1950年に旧制・三高から東京大学法学部政治学科に入学している。大学では丸山真男に学んだ。成績優秀だったのだろう、研究生として大学に残っている。
当初、丸山真男に倣って「日本政治思想史」を専攻しようとしたが、丸山の勧めで中国政治思想史の分野に進んだという。かつて西洋政治思想史研究を志した丸山真男も恩師・南原繁の勧めで日本政治思想史を専門とすることになった。全く同じパターンのようだ。さすが天下の秀才は、どんな課題を与えられても直ちに対応できるということなのだろう。

政治思想史家としての野村氏は、かつて毛沢東を高く評価した。毛沢東ではなく「毛主席」という言葉を使って、「どこの国の学者なのか?」と冷やかされたほどだった。だが現在、毛沢東の評価については、部分的に誤りを認めていて、その誠実な人柄がうかがわれる。
毛沢東政治の政治構造については「…中国では人々は上から下まで様々なレベルがあるけれども、およそ当権者-実権者はそこでは全権を持っている。何でも出来ると思っているんではないかと。”権力は持っているうちに使わなければ、期限が過ぎるとダメになってしまう”(権力不用、過期作廃)という言い方があると聞いたことがあります。…そうした権力を生みだした歴史、政治風土、政治文化を考えていきたいと思うようになりました」とインタビューで応えている。

1972年当時でも、宇野重昭氏(現・島根県立大学学長、当時・成蹊大学教授)は、「野村先生は、毛沢東の一番キラキラした輝く部分だけを採り上げているきらいがある」と評していたのを覚えている。

社会の下層にたたずむ者としては、「権力不用、過期作廃」の意味が身に染みてわかる。日本社会でも似たようなことが沢山あるので、イヤでも気付かされてしまった訳だ。
その意味では、秀才中の秀才である野村氏は、やはり有象無象が権力をふりかざす実社会とは無縁の人のようだ。

何にしても、野村浩一氏がご健在で喜ばしい。実は、教わったこともないのだけれど、一度エレベーターの中で話したことがあったっけ…。



《私は、こちらの「蒋介石と毛沢東」の方がお気に入り!》







これで日本は負け? WBC監督に原辰徳

2008年10月28日 00時58分44秒 | Weblog

WBC監督に原辰徳が内定した。

選定会議に出席した野村監督が、TVで次のような興味深い内幕を話していた。

①前回の会議上、野村監督が「(この会議は)出来レースかね?」と発言したとたん、星野は「俺はやらない」といい始めた。

②野村監督は、落合中日監督を推薦した。しかし、周囲に同調する気配はなかった。

③野村監督自身は、要請されれば、引き受けるつもりがあった。

④会議の最終局面で、星野が原辰徳を推薦した


このとおりであれば、星野は監督就任に最後まで色気があったが、形勢が不利と判断して、「跡目」を原に指名した、ということになる。これは、そこらの会社でもよくあるパターンで、影響力の保持を狙った、セコイ発想だ。星野がまるで自民党の森喜朗気取りであることがよくわかった。

自分の息がかかったものだけを重用し、自分の名声の保持に汲々とする男…それが星野仙一の正体だ

これでもうWBCは負けたも同然。イチローもやる気が出ないだろうし、第一、「言語明朗、意味不明」の原では、イチローを使いこなせるはずもない。
原辰徳のインタビューを聞くと、この人は本当に質問の意味がわかっているのだろうかと思うことが多い。しゃべり方はうまいので、なんとなくわかったような気にさせられるが、監督の器とは到底思えない。「オーナーの指示に従って、監督を引き受ける」とか言っていたが、そこには情熱も何も伝わってくるものがない。

ワンマンは、似たような人物を後継者に指名する。
北京オリンピックで無能ぶりをさらけ出した星野が指名するのは、やっぱり原クンだった…。