澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

中川昭一と遠藤周作に見る”学歴”

2009年10月06日 09時18分43秒 | 社会

中川昭一氏が亡くなった。
死者に鞭打たないという言葉どおり、おおかたのマスメディアは、優秀な人材を失ったというような書き方をしている。「飲酒記者会見」問題であれほど牙をむいたのに…と呆れるのは私だけではないだろう。

 (ご冥福を…)

中川氏の死後、ネット上ではその学歴について書き込みが広がっている。これまでの経歴は、麻布高校→東大法学部→日本興業銀行とされていたが、実は慶應大学経由で東大に入ったようなのだ。

「朝日新聞」の訃報ニュースには次のように記されている。

 「中川昭一氏の歩み
1953年7月 中川一郎氏の長男として生まれる
 63年11月 一郎氏が衆院旧道5区で初当選
 72年3月 私立麻布高校(東京)を卒業
 74年3月 慶大経済学部を中退
 78年3月 東大法学部を卒業
 78年4月 旧日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)入行
 83年1月 一郎氏が札幌市内のホテルで自殺
   12月 一郎氏の後を継いで衆院旧道5区に立候補し、16万3755票を獲得、トップで初当選」

一方、Wikipediaには、次のように書かれている。

「1953年7月19日:東京都渋谷区宮代町(現在の広尾)に中川一郎の長男として生まれる(本籍地は北海道広尾郡広尾町)
1966年3月:新宿区落合第一小学校卒業
1969年3月:私立麻布中学校卒業
1972年3月:私立麻布高等学校卒業
1972年4月:慶應義塾大学経済学部入学
1976年3月:慶應義塾大学経済学部卒業
1976年4月:東京大学法学部政治学科学士編入学
1978年3月:東京大学法学部政治学科卒業
1978年4月:株式会社日本興業銀行入行
1983年2月:日本興業銀行退行
1983年12月:衆議院議員初当選」

上記の「朝日新聞」記事に従えば、中川氏は麻生高校から現役で慶應大学経済学部に入り、2年間で中退し、改めて東大に入り直したことになる。怠惰になりがちな大学生活を”隠れ受験生”として猛勉強し、一般入試で東大文科一類に入るのだから、かなりの根性だ。これに文句を言う人はいないだろう。
一方、「Wikipedia」では、慶應大学経済学部を卒業した後、東大法学部(3年次)に編入(学士入学)したことになる。いずれにしても、東大法学部卒という経歴は偽りではなく、何ら非難されるような点はないのだが、何故、慶應大学在籍の事実をオープンにしなかったのか疑問が残る。(Wikipediaに「東大法学部政治学科」とあるのは、明らかに誤り。当時でも、法学部はコース制を採用していたので、政治学科は存在しない。このように、Wikipediaの記述は、万全ではない。)

世襲議員ばかりの自民党だが、東大を出たかどうかは、その実力の尺度となりうると、私は思っている。細田・前幹事長、谷垣総裁などは、世襲とはいえ、東大を出ている。加えて、細田氏は通産官僚というキャリアがあるので、それなりの識見を持った人物だと判断できる。
中川昭一氏については、もし「Wikipedia」のとおりに学士入学だとすれば、その経歴に若干疑問符を持つ。就職先の日本興業銀行は、父親の威光と東大卒の切符があれば、当然パスできたはずだが、東大の学士入学試験とはどんなものだったのかが釈然としない。まさかとは思うのだが、東大の学士入学は、学科試験以外の要素も絡むのかも知れない…。

中川氏の学歴から連想したのが、故・遠藤周作氏のことだ。

 (隠された経歴がある遠藤周作)

遠藤周作の関係者の証言に次のようなものがある。

「遠藤周作は上智大学時代のことに触れられることを極度に嫌がった。浪人時代の回想エッセイなどを数多く発表しているが、上智時代の事には全く触れていない。自作年譜にも載せていない徹底ぶりである。この時期の評論は加藤宗哉が詳しい。」

ちなみに、Wikipediaの記述は、このとおり。

遠藤周作(Wiki))
1935年 - 灘中学校に入学。カトリックの洗礼を受ける。洗礼名パウロ。
1938年 - 1940年 - 受験失敗→浪人。
1941年 - 上智大学予科甲類に入学。
1942年 - 2月、上智大学退学。受験に失敗→浪人。父の家に移る。
1943年 - 慶應義塾大学文学部予科に入学。父から勘当される。友人宅に居候の後、学生寮に入寮。
1945年 - 慶應義塾大学文学部仏文科に進学。

「遠藤周作文学館」(長崎)の記述は、以下のとおり。

「1935年 昭和10年 12歳 兄・正介とともに、夙川(しゅくがわ)カトリック教会(西宮市)で受洗。
洗礼名ポール。
1943年 昭和18年 20歳 旧制灘中学校卒業後、3年間の浪人生活を経て、慶応義塾大学文学部予科に入学するが、医学部に合格したと思っていた父親が激怒、勘当され、カトリック哲学者 吉満義彦が舎監を務めるカトリック学生寮(信濃町)に入る。
1945年 昭和20年 22歳
昭和16年に合格した上智大学予科(翌年退学)ではドイツ語専攻だったが、佐藤朔の著書と出会い、フランス文学を志し、仏文科に進学。
また、前年肋膜炎を患ったため徴兵には召集されなかった。
1947年 昭和22年 24歳 初めて書いたエッセイ「神々と神と」が認められ、『四季』(角川書店発行)に掲載される。
1950年 昭和25年 27歳 終戦後、最初の留学生としてフランス・リヨン大学大学院に入学。」

「遠藤周作文学館」は遠藤の公式プロフィールだと考えらるが、それにしても奇妙な記述ではないか。「上智大学」の部分をイヤイヤながら付け加えたとも読める書き方なのだ。
劣等生だったと豪語して、学歴のことなど歯牙にもかけない様子だった遠藤なのだが、自らは決して「上智大学に入学した」ことは言わなかった。これはどう考えるべきだろうか。

一般的に、就職や出世競争においては、「高学歴」は必携の武器のひとつ。オールマイティのイメージがある東大卒のキャリアの前では、慶應など目ではない。福島瑞穂によれば、中川昭一は彼女にかつてこう言ったそうだ。「同じ大学なんだから、お手柔らかにね…」(中川氏死去のニュース番組での福島瑞穂の発言) 東大卒のネットワークは、かくも強固なのだ。

狐狸庵センセイこと遠藤周作は、組織人として生きられるような人ではなかった。それなら何故、学歴にこだわったのか。それは多分、父親がいない家庭で、カトリック教徒の母から厳格に育てられた幼少体験によるのだろう。母親への愛と、母親から押しつけられた信仰への反発、それをどこかで調和させようとしたとき、カトリックそのものである上智大学には、窒息するような絶望を感じたのだろう。当時の上智大学は、男子校で、お世辞にも優秀な学生が集まるところではなかった。知名度が多少上がった今でも、卒業生の社会的評価は極めて低い。要するに、卒業してもトクすることなど何もない大学なのだ。

遠藤は、こういう上智の内情を見定めるとともに、慶應卒のメリットも十分に知っていたに違いない。「三田文学」の影響力、文壇での力もしっかりと計算していたのかも知れない。世俗を横目で見ていたかのような遠藤だが、意外に、煮ても焼いても食えない人物だったのかも知れない。

中川昭一と遠藤周作、このように両者には意外な共通点を見いだすことができる。一言で言えば、それはコンプレックス。中川は父親、遠藤は母親へのコンプレックスだった。その重圧を中川は酒で紛らし、遠藤は度はずれた悪戯の数々でごまかした…・。中川と遠藤は、共に子息をフジテレビに入社させているように、ネポティズム(縁故主義)でも似たもの同士だ。




「サヨンの鐘 」を聴く

2009年10月06日 03時54分05秒 | Weblog
映画「練習曲~単車環島日誌」(2006 台湾)の中で、自転車で台湾を一周する主人公が宜蘭(イーラン)に立ち寄る場面があった。そこには「サヨンの鐘」の碑が建てられ、多くの観光客が訪れる場所となっている。
映画では、台湾の原住民のひとつであるタイヤル族の老女達が、日本語らしい歌を歌う場面が出てくる。「…丸木橋…」という言葉が聴き取れるのだが、その歌の由来は分からなかった。

(映画「練習曲~単車環島日誌」)

調べてみると、日本統治時代、タイヤル族の娘・サヨンは、離任する日本人教師を送りに山を下りるが、その帰路、台風で増水した河に流されてしまう。その出来事は美談として伝えられ、1942年、李香蘭主演で映画化(下記の映像)された。
上記のタイヤル族の老女の歌は、古賀政男作曲、西条八十作詞、渡辺はま子の歌唱によってレコードになっていた。
もう80歳を超えた老女が、今なおこの歌を覚えていて、歌っているのが驚きだった。最新の台湾映画の中にも、日本と台湾の”刻まれた歴史”が現れるのが実に興味深い。
現在宜蘭にある「サヨンの鐘」は、10数年前に再建されたものらしい。映画「練習曲」の中では、「これはレプリカです」とだけガイドが説明している。それでは、日本統治時代の「サヨンの鐘」はどこに行ったのか?と思ったら、中国国民党政府が撤去を命じたのだそうだ。40年にも及んだ国民党独裁時代には、日本語はもとより日本統治時代を想起させる事物はすべて禁止・廃棄された。にもかかわらず、現在の台湾では、日本統治時代を見つめ直そうとする気運が高まっている。これは素晴らしいことだ。

(映画「サヨンの鐘」のポスター)

李香蘭主演の映画については、国立民族学博物館で上映された際の解説文があるので、引用させていただく。


【サヨンの鐘上映会の解説文】
「サヨンの鐘」(1943年/75分)
今回のみんぱく映画会では、1943年に封切となった松竹映画「サヨンの鐘」を上映します。
映画「サヨンの鐘」は第二次大戦以前の台湾でおこったある事故がきっかけとなり製作されました。1938年、日本統治下の台湾の宜蘭県にあるタイヤル族の村に赴任していた一人の日本人警官に召集令状が届きました。その警官は普段から村人の面倒をよく見たり、学校の教師もつとめたりして、村人や学校の生徒からとても慕われていました。警官が村を離れるとき、村人たちは彼の荷物を運びながら見送ることにしました。その中に当時17歳の少女サヨンがいました。下山の日は運悪く暴風雨となり、川はいつになく増水していました。荷物を背負ったサヨンは足を滑らせ、川の激流に飲み込まれ、そのまま帰らぬ人となったというものです。
当時の台湾総督は、出征する恩師を見送るために少女が命を犠牲にした愛国美談としてこの事故を扱い、サヨンの村には記念の鐘が贈られました。さらに、この愛国美談は、西條八十、古賀政男という当時の流行歌のヒットメーカーにより、「サヨンの鐘」という楽曲として台湾全島で流行しました。そして、この大ヒットに便乗して1943年に製作されたのが、李香蘭(山口淑子)主演の映画「サヨンの鐘」です。
開催中の企画展「臺灣資料展」の展示資料は1930年代を中心に収集されたものであり、「サヨンの鐘」からは、この時代の台湾の原住民社会の様子をうかがい知ることができます。また、当時の日本が表象した台湾原住民の人々を克明に伝えてくれると思われます。「皇民化」の号令とともに、台湾の人々は日本人としてのアイデンティティをさまざまな形で植えつけられていきます。満州映画界のスター李香蘭を起用した、まさに国策映画として製作された「サヨンの鐘」もそれを進めていく一つの手段とも言えるでしょう。一方で、植民地主義という言葉だけではかたづけることができない、台湾の人々と日本人との関係が当時の台湾にあったことも事実です。映画会では、横浜国立大学教授の笠原政治先生をお招きし、台湾原住民の人々と日本人とが共有した歴史を読み解く機会ももちたいと考えています。
当時の台湾の人々にとって、「日本人」であるということはどういうことだったのかを考えることは、現在の我々にとって、多文化社会のなかのアイデンティティのありかたを考えるうえで、何かしらのヒントを与えてくれるはずです。

〈出演〉李香蘭(山口淑子)、近衛敏明、大山健二
〈監督〉清水宏
〈脚本〉長瀬喜伴、牛田宏、斎藤寅四郎
〈音楽〉古賀政男
〈製作〉台湾総督府・満州映画協会・松竹株式会社



サヨンの歌 - 李香蘭