都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
ヨーロッパのトイレはどうであったかといいますと、はっきりした記録では、紀元前600年頃のローマ帝国時代には水流トイレが作られ、腰掛け式としゃがみ式の両方の便器があったそうです。この古代ローマ人が創りだしたトイレは石造りの便座の下には常時水が流れている、いわゆる水流式トイレでした。しかし、これは中世ヨーロッパには受け継がれず、中世ヨーロッパはトイレの暗黒時代に入っていきます。
中世のヨーロッパの都市は、高い城壁に囲まれて拡大ができなかったため、人口は過密状態でした。
城館や修道院にはトイレありましたが、一般の家にはトイレがなく、住民は「おまる」を使用して、「おまる」が一杯になると定められた場所に捨てるのが決まりになっていました。しかし、定められた場所へは持っていかずに、窓から外へ投げ捨てるのが習慣になっていたため、都市の環境は人口過密と相まって劣悪な状態であったようです。
近世になっても、パリやロンドンなどの都市では、三・四階の建物が多く、共同トイレが屋外にあったため、上の階の住民は用足しに降りてくるのが面倒なので「おまる」を愛用して、夜のうちに窓から糞尿を投げ下し捨てていたので、道路は汚物でぬかるみ、悪臭を漂わせていたのです。
イギリスでは18世紀末まで、室内の便器で用を足し、その汚物を2階の窓から投げ捨てていました。そこで、汚物を踏まないためにハイヒールが登場しました。当時の家は、2階が歩道に突き出ていたので、歩道の内側は2階の床下になっていて汚物を直接浴びる心配はありませんでした。そのかわり歩道の外側はもろに汚物を被りました。そこで紳士たる者は、汚物を浴びやすい歩道の外側を、レディーは安全な内側を歩くマナーが生まれました。投げ捨てられる汚物を浴びないために、イギリス紳士が外套を着用することになったのです。イギリス紳士のマナーもベルサイユのエチケッ
ト(前日記)も糞尿から生まれたとは面白いですね。なお、フランスの田舎では、この糞尿を道路に捨てる習慣が20世紀に入っても残っていたそうです。
また、ベルサイユ宮殿には豪華に装飾され椅子式のトイレがあったそうですが、その数が少なく、貴族淑女達は庭で用を足したため、舞踏会は糞尿の香りが溢れ、翌日の掃除が大変であったといわれています。
そこで、庭師が景観を害する場所に杭を打ち「大小便禁止」の看板を掲げました。その杭のことを、フランス語で「エチケット」というのだそうです。
中世から近世のヨーロッパでは、人の糞尿を肥料として利用しなかったため、日本では有用な糞尿もヨーロッパでは処理に困る厄介もので、これを適切に処理しなかったことから、しばしば、ペストやコレラなどの疫病が流行しました。
ちなみに、有名なパリの大環状下水道が完成したのは1740年ですが、下水を処理する技術がなくセーヌ川に垂れ流しでした。また、イギリスでは、産業革命により都市の衛生状態が劣悪となり、1853年のロンドンでのコレラの大流行を期に下水道の建設が始まりましたが、これもテムズ川に垂れ流し状態で、20世紀になって、ようやく下水処理が開始されるようになります。
なお、16世紀末には、既に、タンク式の水洗便器がイギリスで発明されていましたが、当時は下水道が完備されておらず、汚水の排出先がなかったことから普及しませんでした。また、U字型排水管をつけた水洗便器はイギリスで1775年に発明されております。
したっけ。