都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
●パスタの起源は、古代ローマの「お粥」だった?
パスタの誕生については諸説ありますが、古代ローマ時代に食べられていたという、小麦などの穀物を粥状に煮込んだ「プルス」が起源ではないかといわれています。
プルス(ぷるす/Puls) 小麦粉を水炊きした料理。 |
現代のようにソースとからめて食べるパスタ料理がイタリアに普及しはじめたのは、トマトとの出会いがきっかけでした。
16世紀の大航海時代、新大陸から観賞用として持ち込まれたトマトは、その後食用に改良され、17世紀頃からナポリ地方を中心に栽培が盛んになりました。
それに伴い、パスタとトマトの組み合わせのおいしさに気づいたイタリア国民の間で広く普及したのです。やがて、17世紀半ばを過ぎる頃から、パスタ料理はイタリアから周辺各地に広がっていきました。
当時、パスタの製法といえば手作りが主流でしたが、その後、生地を押し出す圧力機が用いられるようになりました。さらに、18世紀後半にイギリスで起こった産業革命が世界中へ波及したことで、イタリアのパスタ産業も急速に機械化が進みました。
●日本人の第一印象は「うどんのような食べ物」
日本へ最初にパスタが持ち込まれたのは、幕末の横浜に作られた外国人居留地でした。当時、誰も見たことのない食べ物に「うどんのようだ」と記した書物もあったそうです。
初めて国内でパスタが作られたのは明治16年(1883年)頃、フランス人宣教師マリク・マリ・ド・ロ神父が、長崎県長崎市外海町に煉瓦造・平屋建てのマカロニ工場を建設し、製造したのが最初といわれています。そして、日本人による初の国産パスタが作られたのは大正時代。現在の新潟県加茂市で製麺業を営んでいた石附氏に、横浜の貿易商がマカロニの製造を依頼したのが始まりでした。
昭和初期から国産化が進みましたが、当時の機械は原料配合・練り・圧縮押し出し・乾燥などを個別に行うバッチ式で、また機械も小型であったため、一部のレストランなどで口にできる程度でした。
その後、第二次世界大戦の影響で、パスタ作りは一時縮小しました。
●人々の好みに合わせて進化してきた国産パスタ
日本でパスタが一般化したのは、イタリアより配合から乾燥までを連続で行う全自動式の本格的製造機が輸入されるようになった昭和30年代以降のこと。特に、本格的なパスタ製造機導入の契機となった昭和30年は「パスタ元年」といわれています。その頃の国産パスタは、日本人の味覚や食感の好みに合わせて、複数の小麦粉をブレンドして作られていました。
やがて、海外旅行に出かける人が増え、イタリアンレストランのブームなどで日本人のパスタの好みも変わり、昭和61年(1986年)頃からデュラム・セモリナ100%の国産パスタが家庭でも使われるようになりました。さらに、パスタ製造機の改良や新商品の研究・開発など、よりよいパスタ作りを目指す人々の努力によって、国産パスタの品質は向上していきました。そしていまやパスタは、私たち日本人の家庭料理としても楽しまれ、愛される食材となったのです。
パスタがおいしくなる小麦粉 デュラム・セモリナ パスタは小麦の中でもパンや天ぷら粉に使われる小麦とは種類が違うデュラム小麦を粗挽きにしたデュラム・セモリナを原料とします。その特長は、良質のたんぱく質を多く含み、弾力性に富んでいるので生地の形成がしやすく、ゆでてもコシが強く形がくずれにくいこと。まさにパスタにぴったりの小麦粉です。 デュラム小麦は地中海沿岸、中近東、アメリカ、カナダなどの各地で生産されていますが、国産パスタには、カナダやアメリカで生産された、たんぱく質含有量の多い良質のものが使われています。 |
マ・マーマカロニ(当時、日本マカロニ)では昭和30(1955)年にマカロニを発売しましたが、当時はサンプル袋を配っても、生のまま食べて怒り出す人や、「変わったローソクね」と不思議そうに見つめる人も少なくなかったとか。しかし、このとき日本でパスタの大量生産が始まったことから、昭和30年は「パスタ元年」と呼ばれています。 当初はパスタ専用のデュラム・セモリナの入手が困難だったため、パン用の強力小麦粉に改良をほどこし、本場のパスタの味や食感に近づける工夫を重ねていました。昭和30年代も半ばを過ぎると家庭での本物志向の高まりからデュラム・セモリナのパスタが求められるようになります。初めて輸入されたデュラム・セモリナを100%使った業務用商品が販売されたのは昭和36年。昭和40年からは日清製粉の工場でデュラム小麦をセモリナに挽くことができるようになり、それ以降、家庭にもデュラム・セモリナを使用したパスタが浸透していくことになります。 パッケージの変遷
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JASでは下図のようにマカロニ類を形状別に4つに分類しています。
マカロニ |
2.5mm以上の太さの管状又はその他の形状(棒状又は帯状のものを除く。)に成形したもの |
スパゲッティ |
1.2mm以上の太さの棒状又は2.5mm未満の太さの管状に成形したもの。 |
バーミセリ |
1.2mm未満の太さの棒状に成型したもの。 |
ヌードル |
帯状に成型したもの。 |
●鑑賞用として栽培がスタートしたトマト
ヨーロッパでトマトを食べるようになったのは18世紀になってからのことといわれています。なぜ、トマトがヨーロッパに持ち込まれてから200年もの間、食用として受け入れられなかったのでしょうか?
その理由は強烈な匂いやあまりに鮮やかな赤い色への抵抗感、さらにナス科の植物には麻酔作用や幻覚作用のある植物が多かったことから、トマトも有毒植物であると信じられていたのでは、と考えられています。一説によるとヨーロッパでトマトをはじめて栽培し食用としたイタリア人は、飢饉のためしかたがなくトマトを食べたといわれています。
トマトはメキシコからヨーロッパへ。そして北米、日本へと伝播した。
したっけ。
【かってにせんでん部】
minimarche
ハーブティーは下記のお店「雑貨(Tkuru&Nagomu)で取り扱っています
雑貨(Tukuru ・nagomu) 0155-67-5988
可愛い雑貨も、たくさんありますよ。
Cafe & Bsr Noix(ノワ) 0155-67-5955
落ち着いた雰囲気で、ゆっくり食事ができます.
080-0018 帯広市西8条南6丁目7番地
http://www.d-kyoya.com/minimarche/
☆メディカルハーブ教室のご案内☆ 日本メディカルハーブ協会の認定教室をスタートすることになりました。 minimarche herbal labo(ミニマルシェ ハーバルラボ)ホームページはこちら↓
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080-0018 帯広市西8条南6丁目7 ☎0155-22-2151
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