都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
今回師匠はばんえい競馬の「そり」を描いてきました。
「ばんえい競馬」とは世界で唯一帯広市が開催している競馬です。
昔の開拓や農業は馬の力に頼りことが大きかったのです。
自分たちの馬の力比べという遊びから始まったのが、ばんえい競馬です。
ばんえい競馬のそり、13年ぶり一新 騎手にうれしい改良 2022/04/14 11:43
ばんえい十勝(帯広市主催)は今シーズン、競走用そりを13年ぶりに一新する。騎手の意見を取り入れ、スムーズにレースを行えるよう細かい調整を施した。また、これまでは旭川の業者に製作を依頼していたが、今回は初めて帯広の有働鉄工所(西22北1、有働孝弘社長)が担当した。生まれ変わったそりは製作に携わった騎手らの期待を背負い、17日に始まる第1回能力検査でデビューする。
市ばんえい振興課振興係の田澤親さんによると、そりリニューアルの企画は2019年に始動した。主な変更点は大きく三つ。まず、ファンが見て分かりやすいのは色の変更。従来の緑色から、コース場に映えるよう赤に変えた。同じ赤でもより見栄えする塗料を選んだという。
次に、騎手の踏み台後方の隙間を、プレートを差し込むことで埋めた。ここぞという場面で馬にむちを入れる際、むちが隙間にはさまってしまう瞬間が多々あったといい、「実はこの部分の改良が騎手からの要望で一番多かった」(田澤さん)。
また、そり内部の随所にあった凹凸も極力なくした。従来のそりはへこみ部分に砂がたまり、客から「重くなって不平等ではないか」という声があった。騎手はレースの合間にたまった砂を取り除かなければならず、冬季は凍り付いてさらに負担になっていた。
ハンドル部分も改良した。従来は鉄素材がむき出しで、むちを入れる際に膝やすねが当たり、痛みを感じる騎手が多かった。ここにウレタンスポンジを装着することで、痛みが軽減されるという。
そりの重量(450キロ)や全長など主な仕様に変更はない。
実はそり一新の動きは17年にもあった。実際に一度使われたが、真っすぐ走らないなどの不具合が発生し、すぐに使用中止になった。このような経緯があり、田澤さんは「今回も、最初は騎手に改善点を聞いても『どうせできないでしょ』と反応が鈍かった」と振り返る。それでも新たなそりが次第に完成してくるにれて、「『いつ乗れるの?』と期待感も強まっていき、うれしかった」と笑みをこぼす。
製作した有働鉄工所の有働社長は「ばんえい競馬は帯広独自の競馬になったのだから、もともとそりも地元で作れないかという思いがあった。試作品も四つ作って試行錯誤を繰り返した。100%の物かは分からないが、おおよそ期待に応えられるできだと思う」と、謙虚さの中に自信をのぞかせる。(山田夏航) 山田 夏航 |
人と馬とが一体となる迫力のレース ばんえい競馬はどうして生まれた? サラブレッドの約2倍にあたる体重1トンもの巨大なばん馬が、こちらも最大1トンにも及ぶ鉄ソリを曳く、迫力満点のばんえい競馬。世界でも類を見ない、帯広でしか見られないレースです。この唯一無二のレースが、どうやって生まれ、どういう運命をたどってきたのか……その変遷をたどっていくと、時代の流れと人々の生活も浮き彫りになっていきます。ばんえい競馬の歴史に改めて注目してみましょう。
ばんえい競馬の由来となった競走は、北海道の開拓時代にまで遡ります。農耕や運搬といった力仕事において、大いに活躍していたばん馬。このばん馬を引き合わせ、力比べをさせたのがはじまりだとされています。やがて明治の終わり頃になると、農村のお祭りとして、現在のようにソリを曳かせる「お祭りばん馬」が定着しました。さらに十勝では、明治44年に十勝国産馬組合が競馬場を建設し、いち早く「十勝競馬」を開催したのです。昭和7年には名称を「帯広競馬」と改め、現在と同じ場所に施設も完成させました。
ばんえい競馬に転機が訪れるのは、昭和21年のこと。地方競馬法が公布され「競馬の種類は駈歩、速歩、障害、ばんえいの四種とする」と定められたのです。競馬法の中に組み込まれたことで、レースは規則化されます。こうして昭和22年、初の公式ばんえい競走が旭川と岩見沢で開催。草創期はまだソリの大きさや重さもまちまち、騎手たちの体重制限などもなく、全員がねじり鉢巻き姿だったといいます。
昭和23年には改正競馬法により地方競馬は都道府県主催となりましたが、さらに昭和28年には市営競馬が発足。旭川、帯広、北見、岩見沢の4都市でのばんえい競馬がはじまりました。これによって、ルールも少しずつ改正されていきます。一時は騎手の立ち乗りも禁止されていましたが、昭和38年に解除されました。
木製のソリは雨に濡れるとずっしりと重くなるため、昭和46年から鉄製のソリに。最初は禁止されていた馬を打つ行為も、馬の能力を引き出すために必要だと、昭和40年に「手綱の余った部分」と定めて打つ力を制限することで解除されました。
こうして発展を遂げてきたばんえい競馬は、昭和40年代後半から50年代前半にかけて、隆盛期を迎えます。全国的な競馬ブームの到来により、それまで北海道民のレジャーだったばんえい競馬も注目を集めることになったのです。
昭和48年には東京の大井競馬場ではばんえいアトラクションが開催され、倉本聰さん脚本のテレビドラマ『ばんえい』も放映。ばんえい競馬は、全国の地方競馬の中でもトップクラスの売り上げ上昇率を示しました。
しかし、ブームは永遠に続くものではなく、売り上げは徐々に下降線をたどりはじめます。そこで、平成元年には4市が協力し、北海道市営競馬組合を設立。経営基盤の安定化を図りました。一時は3年連続して発売額を更新するなど人気回復の兆しを見せましたが、バブルが崩壊すると売り上げは一気に低迷。ばんえい史上、もっとも深刻な危機を迎えることになるのです。
平成18年には「ばんえい競馬改革検討プロジェクト」が設置されるなど、運営の抜本的な見直しが図られましたが、同年に旭川、北見、岩見沢の3市が撤退を正式表明。帯広も「単独で開催することは困難」との考えを示します。そこで、ばんえい競馬馬主協会と北海道ばんえい競馬調騎会が立ち上がり、市に請願書を提出。全国のファンや市民有志も声を上げ、存続を訴えました。
ばんえい競馬の歴史の灯を消してはならない! すると事態は急展開! 民間の支援を得て、帯広市単独でばんえい競馬を存続できることになったのです。こうして平成19年、新生「ばんえい十勝」が幕を開けます。レースと共に多彩な催しを楽しむことができる、明るい施設へと生まれ変わりました。ばんえいで初となるナイター競馬が開始されたのも、同じ時期でした。
長い歴史の紆余曲折を経て、今もばんえい競馬は幅広い人気に支えられています。帯広を訪れた際は、世界で唯一のレースをぜひ味わってみてください。巨体ながらも可愛い目をしたばん馬たちが、出迎えてくれますよ! |
「ばんえい競馬」は漢字で書くと「挽曵競馬」と書きます。
詳しく知りたい方は下記をクリック↓
ばんえい競馬開幕 観客は静かに応援
師匠! 今回は「ばん馬」ですね。
こちらでは、「ばんえい競馬」を「ばん馬」といいます。「ばん馬」は「ばんえい競馬」のと「馬」そのものをさすことがあります。
私は「ばん馬」を描きます。
↑師匠が私にくれた絵手紙
私が師匠に送った絵手紙↓
#NO WAR #STOP PUTIN
#StandWithUkraine
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