天福六歌撰
天福(てんぷく=転覆)
原胤昭は福島事件の浮世絵を配布した時、6被告と公判で問題となった政府転覆に掛けて「天福六歌撰」と題した。これは明治14年(1881)上野公園で開催された第二回内国勧業博覧会のときに、東京新富座で河竹黙阿弥晩年の最高傑作「天衣紛上野初花」の通し上演した。講談「天保六歌仙」を題材にした狂言で、九代目團十郎の河内山、五代目菊五郎の直次郎、初代左團次の市之丞、八代目半四郎の三千歳という顔合わせで大当りをとった。この歌舞伎も題名に上野がついていて、第二回内国勧業博覧会の見物客を取り込もうとしていた。
原は自由民権運動を弾圧した福島事件の高等法院裁判確定後、間もなく浮世絵画家小林清親に絵をかかせ、文章を原胤昭として出版販売したところ販売禁止となり、無料配布し
た。配布した浮世絵は田母野・花香・平島松尾の3枚であったという。
福島自由党の盟約には「第一条に吾党は、自由の公敵たる専制政府を転覆して公議政体を建立するを以て任となす。」とあった。河野広中(磐州)が最初書いたのは「専制政府を改良して」であったが花香恭次郎が主張して、「転覆」と改めたのであった。後年この二字のため、盟約書が証拠となって、その署名者河野磐州はじめ、田母埜秀顕、愛沢寧堅、花香恭次郎、沢田清之助、平島松尾の六名が被告人となった。つまり「転覆」が犯罪の証拠とされた。社会の法違反者をヒーローとした歌舞伎白波物の影響もあって「天福六歌撰」とした。従って福神漬の命名した團團(まるまる)珍聞主筆梅亭金鵞は単に谷中の七福神から命名しただけでなく、團團珍聞に出入りしていた原胤昭・小林清親から話を聞いていたので、福=復の意味もいれて命名したのではないのだろうか。福島事件被告6人と原胤昭は石川島の監獄で知り合い、原はこの後犯罪者の生活保護を目指す人生となった。
福神漬語り部の鶯亭金升は会津帝政党(福島自由党を攻撃していた)を支援していた池の端御前といわれた福地桜痴(源一郎)の敷地内で新婚生活を送っていた(明治22年頃)
天福(てんぷく=転覆)
原胤昭は福島事件の浮世絵を配布した時、6被告と公判で問題となった政府転覆に掛けて「天福六歌撰」と題した。これは明治14年(1881)上野公園で開催された第二回内国勧業博覧会のときに、東京新富座で河竹黙阿弥晩年の最高傑作「天衣紛上野初花」の通し上演した。講談「天保六歌仙」を題材にした狂言で、九代目團十郎の河内山、五代目菊五郎の直次郎、初代左團次の市之丞、八代目半四郎の三千歳という顔合わせで大当りをとった。この歌舞伎も題名に上野がついていて、第二回内国勧業博覧会の見物客を取り込もうとしていた。
原は自由民権運動を弾圧した福島事件の高等法院裁判確定後、間もなく浮世絵画家小林清親に絵をかかせ、文章を原胤昭として出版販売したところ販売禁止となり、無料配布し
た。配布した浮世絵は田母野・花香・平島松尾の3枚であったという。
福島自由党の盟約には「第一条に吾党は、自由の公敵たる専制政府を転覆して公議政体を建立するを以て任となす。」とあった。河野広中(磐州)が最初書いたのは「専制政府を改良して」であったが花香恭次郎が主張して、「転覆」と改めたのであった。後年この二字のため、盟約書が証拠となって、その署名者河野磐州はじめ、田母埜秀顕、愛沢寧堅、花香恭次郎、沢田清之助、平島松尾の六名が被告人となった。つまり「転覆」が犯罪の証拠とされた。社会の法違反者をヒーローとした歌舞伎白波物の影響もあって「天福六歌撰」とした。従って福神漬の命名した團團(まるまる)珍聞主筆梅亭金鵞は単に谷中の七福神から命名しただけでなく、團團珍聞に出入りしていた原胤昭・小林清親から話を聞いていたので、福=復の意味もいれて命名したのではないのだろうか。福島事件被告6人と原胤昭は石川島の監獄で知り合い、原はこの後犯罪者の生活保護を目指す人生となった。
福神漬語り部の鶯亭金升は会津帝政党(福島自由党を攻撃していた)を支援していた池の端御前といわれた福地桜痴(源一郎)の敷地内で新婚生活を送っていた(明治22年頃)