年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語103清水次郎長

2010年02月26日 | 福神漬
清水次郎長
幕末から明治に入って活躍した清水次郎長が幕臣山岡鉄舟と交流していたことはかなり広く知られている事実である。福神漬の酒悦のホームページに店主と山岡鉄舟との交友があったと書いてあるが清水次郎長とは関係ないと思っていた。しかし高橋敏著「清水次郎長」によると明治21年山岡鉄舟が7月に亡くなると、8月に次郎長が開拓していた富士南麓の開拓地の払い下げを受け、その一部を横浜の豪商高島嘉右衛門に売却している。また同時期に鉄舟寺の再建中だったが資金不足であったようだ。従って富士南麓の開拓地買収資金の話はどこから回ったのだろうか。
 明治16年末に静岡県令が薩摩人に代わって間もなく、明治17年2月25日清水次郎長は「賭博犯処分規則」で逮捕されてしまった。この「賭博犯処分規則」は当時密かに自由民権運動を支援していた博徒を取り締まる目的があった。この事態を受けて、清水次郎長の所に居候となっていたことのある天田愚案は明治12年の「東海遊侠伝」書き上げてあって山岡鉄舟の家においてあったのに手をかけ出版することを思いついた。勝海舟の賛、編集者は成島柳北、出版は大岡育造の與論社ということで、明治になって改心した次郎長の功績を認めてもらうため刊行された。今に伝わる清水次郎長の話の出所は「東海遊侠伝」から始まるという。
 自由民権運動を蔭から支援する博徒を取り締まる目的で作られた法律であったため、清水次郎長は明治17年4月懲罰7年・科料金700円を言い渡された。判決言い渡しと同時に天田は「東海遊侠伝」副題・次郎長物語として出版した。薩摩人の県令が17年9月に栄転すると、静岡県に旧幕臣の関口県令が着任した。すると明治18年11月16日高齢(66歳)を理由として次郎長が仮出獄となった。清水次郎長が出獄すると咸臨丸殉難者記念碑設立運動・久能寺を鉄舟寺として再建することをするようになる。
東海遊侠伝の出版に到る経緯は旧幕臣・東北諸藩有志連合の力添えがあったという。また高橋徹氏は富士南麓の開拓地売却の仲介は山岡鉄舟と推測している。この事実が本当だとすると何か自由民権運動に関係する人達が出てくるのだろうか。
福神漬販売拡大は下谷上野周囲の人達の協力であったので東海遊侠伝出版の人脈が重なる。
コメント
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